本しゃぶり

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聖書のバナー広告で悔い改めよ

宗教は、文化を備えた社会を維持していくために必要不可欠である。
2代目ローマ国王のヌマ・ポンピリウスはこう考え、宗教を基礎とした国家を築いたと聞く。

今ここに、スマホネイティブに向けた布教方法を提示する。

人を釣る漁師

現代の日本において、宗教の勧誘ほど胡散臭いものはないだろう。多くの日本人は「聖書を読んでみませんか」と言われたら、聖書に興味を持つよりもその人から距離をとろうとするだろう。

ではどのようにしたら人は聖書に興味を持つのか。賢者はいつも偉人の踏み固めた道を辿り、至高の人の真似をするべきである。ここはやはり現在最も使われている宣伝方法に倣うのが一番ではないだろうか。

というわけで、聖書のバナー広告を作ってみることにした。もちろん本物のバナー広告というわけではなく、貼られているのはただの画像である。踏んだところで神の国への扉は開かれない。

失楽園

Cornelis van Haarlem [Public domain], via Wikimedia Commons

『創世記』第3章より。これについて特に説明の必要は無いだろう。裸の男女、誘惑、バッドエンドの予感と、人が気になる要素が揃っている。物語の導入を過激な内容とすることで読ませようとさせる構成は、なかなか見倣うべきものがある。

カインとアベル

Peter Paul Rubens [Public domain], via Wikimedia Commons

『創世記』第4章より。アダムとエバの子供である兄カインと弟アベルが主役の話。二人は神に捧げ物をするが、ヤハウェ(神)は弟アベルをえこひいき。嫉妬したカインはアベルを殺す。人類最初の殺人事件である。家族間の争いは広告向きの題材である。

ノアの方舟

Edward Hicks [Public domain], via Wikimedia Commons

『創世記』第6~8章より。有名なノアの方舟。画像を作ってから気がついたが、洪水が七日七夜続いたのは元ネタであるシュメル神話の洪水伝説だった。聖書の方は四十日四十夜も雨が降り続け、水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかったとある。やはり後発の作品ではインフレが起きる。

ファラオに嫁ぐサライ

James Tissot [Public domain], via Wikimedia Commons

『創世記』第12章より。こう書くとサライ(人妻)に不幸が起きるようだが、実際に不幸な目にあったのはファラオの方である。アブラムは自分の妻であるサライが美人であるため、嫉妬を免れるために彼女を妹と偽った。それを信じたファラオはサライを召し入れ、アブラムも義兄ということで大切に扱う。だが人妻を自分のものにすることをヤハウェは許さない。神罰を受けたファラオはサライをアブラムに返し、出ていってもらうことにしたのだった。

ヤコブを祝福するイサク

By Horst, Gerrit Willemsz. (c.1612 - 1652) – ArtistDetails of artist on Google Art Project [Public domain], via Wikimedia Commons

『創世記』第27章より。なぜか聖書は兄より弟が良い目に会う。兄がろくでなしキャラならばまだ分かるが、単純にヤハウェが弟をひいきしているだけなのだから救われない。この話では母と弟と神が結託して父を騙し、兄から長子権を奪うのである。

長子皆殺しの災い

Charles Sprague Pearce [Public domain], via Wikimedia Commons

『出エジプト記』第11章より。ヤハウェの長子嫌いもここに極まれり。エジプトの初子を皆殺し。ついでに家畜の初子も全て死ぬ。なぜこうなるまでファラオはエジプトからイスラエルの人々を解放しなかったのか。それはヤハウェに心を操られていたからである。エジプトの一般庶民からしたら「なぜうちの子が」としか言えないだろう。

ダビデ対ゴリアテ

Osmar Schindler (1869-1927) [Public domain], via Wikimedia Commons

『サムエル記』第17章より。聖書の中でも一番ラノベの主人公っぽいダビデ最初の活躍。このシーンだけを見たならば「哀れな少年が犠牲に」という感じだが、実際はダビデ自らの意志で決闘を行うのだ。一撃で大男を撃ち倒すここからダビデ伝説が始まった。少年は、そして王となる。

キリストの降誕

Gerard van Honthorst [Public domain], via Wikimedia Commons

『マタイによる福音書』第1章より。ヨセフ目線で見ると辛い。

おわりに

そろそろ聖書に興味が出てきた頃合いではないかと思う。おそらく何度も画像をクリックしては、なぜ続きを読めないのかと、憤りを感じていたのではないだろうか。求めよさらば与えられん。


「待て、俺は聖書のネタになる部分だけを知りたく、長ったらしい文章を読みたくはない」
こんな声が聞こえてきそうだ。そんな人にも救いの手を差し伸べよう。これを読むといい。

この記事を書く上で一番役に立ったのがこの本である。

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