その話は考察するに値しない。
脚本の人は哲学的ゾンビなのだから。
彼女は真顔でそう言った。
千代ちゃんの一撃
相変わらず『けものフレンズ』が人気である。どれほどの人気であるか、人気の秘密は何かということは、今さらここで書く必要は無いだろう。一つ言うならば、7話で答え合わせがされると共に、新たな謎が提示されたのは良い構成だった。きちんと考えて作っていることを示し、これからもそうであると伝えている。回を重ねるごとに増えていく #けものフレンズ考察班 は今後も活発に使われることだろう。
そんな風潮に対し、前々から水を指すような画像が貼られるのを何度か見た。
これは『月刊少女野崎くん*1』第60号(第6巻収録)の一コマである。状況としては、片思いの王子役を演じることになった鹿島が、その感情表現について悩んでいたのに対しての一言である。
出典元をはっきりさせたところで本題と行こう。この画像を貼るような人は何を言いたいのだろうか。究極的にはこうだ。
「哲学的ゾンビによって書かれた作品を考察することは無駄である」
哲学的ゾンビ(英:Philosophical Zombie) とは、デイヴィッド・チャーマーズによって提起された心の哲学における思考実験である。外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識、クオリア)を全く持っていない人間と定義される。
心の哲学まとめWiki - 哲学的ゾンビ
哲学的ゾンビは思考しない。思考しているかのように振る舞うし、その言動は意識のある普通の人間と全く同じである。しかし、意識は無い。哲学的ゾンビは作品を書く際に一切考えていない。ただ外部入力に対し、その反応の出力を行っているだけだ。
千代ちゃんの主張をそのまま受け入れるば、哲学的ゾンビによる作品を考察することは無駄である。なぜならばそこに「考え」は無く、あるのは反応の結果でしかないからだ。
だが俺は考察することが無駄だとは思わない。意味というものは自分で与えるものだからである。
弟子がいて師となる
意味を自分で与えるとはどのようなことだろうか。これはこの本に書かれていることがヒントになる。
ここで言う「先生」とは、授業をする教師というより、師匠と言ったほうが適切だ。それは万人にとって価値のある人物ではなく、弟子である自分にとってのみ価値のある人物。ただしその奥底は計り知ることができない。そんな存在のことだ。
そういった師匠の言動は、一挙一動が弟子にとっては教えとなる。他の者にとっては取るに足りないことであっても、弟子はそこに意味を見つけ、学び取る。こうなると師匠側の意図は関係なくなる。全ては弟子の解釈しだいでしかない。だから張良は黄石公の嫌がらせのような指示にも従い、奥義を伝授された。
とはいえ、人と人の師弟関係だと、どうしても師の考えというものを重要だと思ってしまう。その振る舞いに師の意図があれば正確に解釈し、無ければ深読みしないのが弟子としてあるべき姿である、と。なので一切考えるということをしない存在を師とする話をしよう。それは動物を師とすることだ。
動物に学ぶ
「動物に学ぶ」というのは古今東西で行われてきたことである。動物の生態や特徴を知り、それを行動や技術に活かす。それは何も物理的な特性だけではない。人間はその振る舞い方さえも動物を参考にする。例えば最近読んだ中だと、このような本だ。
ペンギンからイノベーターの重要性を、ライオンからは不屈の闘志を学ぶ。人間はこのように動物を師と仰ぐ。相手は本能に従って行動しているだけにも関わらずだ。そこに動物の「考え」は無い。そして、そのことを気にする人もいない。
こういった「動物に学ぶ」ということからわかるように、相手の思考というのはそれほど重要では無い。大切なのはそこから何かを学ぶということなのだ。そういった姿勢でいれば、人は落下するリンゴからでさえ気づきを得る*2。
By Andrew Gray - Own work, CC BY-SA 3.0, Link
物語の考察も同様である。作者の思考を推定するゲームをしているならともかく、物語の考察は受け手の解釈が全て、と言っても良い。その解釈は人それぞれであり、さらに同じ人であってもタイミングによって異なることさえある。それなのになぜ作者が考えているかどうかが重要になるのだろうか。
なので俺はこう言い切れる。
たつき監督らが哲学的ゾンビだとしても『けものフレンズ』を考察できる、と。
本当に考えていないのは
ところできっかけとなった『野崎くん』だが、あのコマの後のストーリーについて少し書いておこう。二人のところに「脚本の人」である野崎くんがやってきて、台本を見ることになる。
考えていないのは脚本の人ではない。千代ちゃんである。『けものフレンズ』においても同じだろう。
本当の答えはここにある
たどり着けるとは言っていない。