読んだ。自己満足じゃないだろ。
ここ最近ブログがどーたら、書き手がこーやら、読み手があーやら、と色んなエントリで書かれている。今日読んだこのエントリもまあ、そんな感じ。僕...
俺は自己満足じゃあない
まず「ブログを自己満足で書く」の定義をしておこう。「大辞林 第三版」によると『自己満足』について次のように書いてある。
客観的評価に関係なく,自分自身にまたは自分の行為に自ら満足すること。
客観的評価に関係がないということは他者の存在はあってもなくても同じということだ。そして元記事ではブログについてこう書いてある。
書く事によって、自分がどれだけ満足するかがスタート地点じゃないかなあ。
したがってブログを書くことが自己満足といえるのであれば極端な話、他者がいなくてもブログを書くということになる。だからここでは「ブログを自己満足で書く」という意味を次のように定義する。
「アクセス数が0とわかっていてもブログを書く」
俺は自己満足でブログを書いていないと断言できる。読まれないなら忙しい中わざわざ時間をかけて文章を書いたりなんかしない。
作成と発表
何かを作り始めるというスタート地点について元記事ではこう書かれている。
それらの活動全てのスタート地点は「自分が楽しいからやる」「自分が満足したいから作る」だと思う。
これについては賛成だ。強いて言うなら「面白そうだからやってみる」というのがある。だがそれは些細な事だ。結局は『自己満足』がスタートであることに間違いない。
だが、それを『発表』するとなれば話は別だ。『発表』という言葉が大げさすぎるなら「他者に見せる」と言ってもいい。「他者に見せる」というのは自分以外の反応が欲しいということだ。反応が欲しくないならわざわざ見せる必要はない。なぜなら「他者に見せる」ということは『作成』に加え『公表』というステップを追加したということだ。つまり『自己満足』でやっている時に加えて単純にコストが増えている。人がコストを増やす時はコストに見合った『何か』が欲しいからだ。この『何か』が公表の場合『反応』ということになる。
そして元記事にあるこの文章。
これはブログに限った事じゃない。
音楽を作る事、映画を作る事、動画を作る事、面白いサイトを作る事。
まさにその通り。ブログに限らず、全て作るだけなら自己満足だが発表するならそれは自己満足ではない。全ては他者のためだ。
他人がいるから目立たせる
俺は元記事の元記事に書いてあったこの目標に近い考えでブログを書いている。
〜ある日、たまたまニコニコ動画でくだらない動画を見つけた。そして、僕はブログを書く事にきめた。〜最近「ブログ」についてのエントリーが多くて考えさせられることも多...
ブログを読んでくれた人が楽しんでくれたり、ためになったと感じてくれることと、僕がどういう人間か知ってもらうこと、この2つが僕のブログの目標だ。
別に俺についてどういう人間か知ってもらおうとは思っていない。自分の事を書く時はそれが必要だと考えたから書くだけだ。まあそれは置いといて、元記事の方にこんなことが書いてある。
読み手とか意識するのはホント、ブログで金稼いで、ブログで生活している人だけで良い、と俺は思う。
けど、そーいう人の書いているブログってホントくそつまんない。
他人の目を気にして、他人に価値を与えるために書かれたような文章にはこれっぽっちも魅力を感じない。
率直に自分勝手で自己満足で書かれている文章のほうが面白いし、発見があるし、読んでて楽しい。
たぶんそれは「意識して書いている人」がヘタなだけ。もちろんこの記事がつまらないと思うなら俺も含めてヘタというだけだ。ここで言う「自分勝手で自己満足で書かれている文章」の例が特に書いていないので、勝手に予想する。俺がよく自己満足で書いているだろ言いたくなるブログは次のような感じだ。なんか怒りに身を任せて書いたような記事で
くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおお
うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
なんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだ
もうみんな死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
みたいなやつ。勢いはあるけど読みにくいし、特に意味もない文章だ。でもこれって書いている俺の前にはこう表示されている。
\\くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおお
\\うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
\\なんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだ
\\もうみんな死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね\\
わざわざ文字を打ってから修飾するという一手間を加えている。音声認識でブログを書いているのでなければ皆そうだろう。俺の知っているキーボードは強く叩いても、表示される文字の大きさも色も変化しない。死んだ目をしながら普段より長くキーを押し、コピペを繰り返し、範囲選択をし、修飾をする。そうやって書いているのだ。なぜこんな手間をかけているのか。それは見てもらうためだ。一見自己満足に見えてもそれは自分に伝わらないだけであって本人にとっては違う。下手をするとそのほうがウケるからという理由でワザと自己満足っぽい文章を書いているのかもしれない。どっちにしろ他者を意識していることに変わりはない。
俺のほうがうまくできる
なんで俺がこんなに書いたかというと俺が何かを始める切っ掛けは「これなら俺のほうが上手い」と思うことが多いからだ。特にネットに何かを発表する時はほとんどこれ。ネットではよく『神』と賞賛されることがあるが、全然大したことないものが『神』と賞賛されていることがある。俺はそういうのが許せない質なので文句を付けたくなる。「この程度で神なら俺は一体何なんだ」と。そしてそれを証明するために全力で作る。
最近ほとんど手を付けていないが、以前LEGOにハマっていた。ハマる前からLEGOは好きだったが、パーツをバラ買いまではしていなかった。ある日ニコニコのランキングに上がっていたLEGO動画があったが、大したことないのに賞賛されていた。それが許せなくて俺は超えるものを作ろうと思い、本気でLEGOに取り組んだ。勝つためにやるので、自己満足で組んでいた時のものとはクオリティが違う。やはり良い物を作るためには信念や情熱よりも競争相手が必要だ。
まとめ
昔から最後に勝つのは自分の為ではなく、誰かの為にやる人。