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不運な少女は現実を受け入れる

この記事を書いた理由はただ一つ。
あなた方には全員幸せになってもらいます。

春アニメの後半で

気がつけば2016年春アニメも後半を迎えている。そんな現在、俺の中で評価が上がっている作品が一つ。それは『あんハピ』である。

当初は数ある新アニメの一つ、としか見ていなかった。しかし回を重ねるごとに、その認識は変わっていく。そして今はこう言う。このアニメは日常系の先を行くものである、と。

知らない人のために簡単にこの作品について説明しておこう。公式サイトにはこのように書かれている。

不憫な少女たちが今日も元気に繰り広げる励まし系学園コメディ。
〝負の業〟すなわち不幸を背負った生徒たちが集められたクラス、天之御船学園1年7組に入学した、不運の花小泉杏(はなこ)、悲恋の雲雀丘瑠璃(ヒバリ)、不健康の久米川牡丹(ぼたん)、方向オンチの萩生響(ヒビキ)、女難の江古田蓮(レン)。
「しあわせ」になるべく高校生活を送ることになるが――
イントロダクション | TVアニメ「あんハピ♪」公式サイト

不幸な性質を持つという共通点で集められた少女たちが、幸福実技の名の下に出される課題に挑んでいく、というのが大まかなストーリーだ。

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主人公達は幸福になることを求められる / 『あんハピ』1話より

原作は『まんがタイムきららフォワード』にて連載されているマンガである。

日常系アニメの仕組み

『あんハピ』の解説に入る前に、先行作品について書いておく。あるものが他よりも進んでいると主張したいのであれば、まずは既存のものがどのようになっているかを明確にしておく必要がある。『あんハピ』の場合、その対象となるのは、いわゆる日常系アニメであることに異論は無いだろう。それも「難民」が出るような作品だ。

大百科での解説に乗っかるのであれば、作品例として『ゆゆ式』『きんいろモザイク』が挙げられる。

これら日常系とはどのような作品であったか。それは、再発見の物語である。日常という取るに足らないシチュエーションの中に価値を見出し、評価する。それが日常系だ。その昔、物語を成り立たせるためには非日常的な要素が必須であると思われていた。だが本当に必要であったのは新たな出来事ではなく、新たな視点であった。価値あるものは最初から日々の生活の中にあり、それを見つけ出すだけで良かったのである。

かつて、ユリウス・カエサルは言った。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」と。これは一般的に、現実から目を背ける人に対して使われることが多い。しかしその逆にも言える。価値のあるものについても、見たいと欲しなければ見えてこないのだと。だからこそ日常系の作品には往々にして余所者、つまり外部からやって来たキャラが存在する。これは彼女らが「見たいと欲している」からに他ならないのである。

幸せはどこにあるのか

日常系アニメとは再発見の物語であると説明した。価値とは見つけ出すものである、と。この考えは更に先へと進めることができる。それは、我々は主観的な世界に住んでおり、自らが意味づけをほどこしているのだ、と。そしてこの考えは俺の発想ではない。彼のだ。

彼の名はアルフレッド・アドラー。オーストリア出身の精神科医であり、アドラー心理学の創始者である。『あんハピ』の真髄はアドラー心理学によって見えてくるのだ。幸せになるカギはここにある。

意味を与える

『あんハピ』の主人公、花小泉 杏(ハナコ)は不運な少女である。階段を降りれば転げ落ち、猫に出会えば襲われ、水辺に近づけば溺れる。調査報告書には「この世の全てにおいて運がない。」と書かれているほどだ。

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『あんハピ』1話より

このようなハナコは不幸であると言えるのか。振りかかる災難の数々を見ていればそう思えるだろうし、そもそもハナコは「不幸を背負った生徒」として集められている。だが彼女自身はいつも楽しそうだ。その笑顔だけを見ていたら、彼女が不幸な人間であるとは思えない。7話において、ハナコはどんな時に喜んでいるか、と振り返るシーンがあった。その答えは、いつも。理不尽な事態になろうとも、ハナコはそこに何かしらの喜びを見出す。例え傷だらけになったとしてもだ。

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『あんハピ』7話より

そんなハナコのことは、不運であるとは言えても、不幸であるとは言えない。ではハナコは現実から目を逸らしているのだろうか。これも答えは否。彼女はただ現実を受け入れ、そこに良い意味を見出しているだけである。これはアドラー心理学の見地からすると、まさしく幸せになれる道を歩んでいる。なぜなら注目すべきは「何があったか」ではなく、「どう解釈したか」であるからだ。

アドラー心理学の特徴の一つである認知論。この考えでは、客観事実そのものは重要ではなく、個人にとっても意味は無い。それよりも客観事実に対する個人の主観的認知、つまり、事実に対してどのような意味を与えるのかが重要となる。同じ出来事であっても受け取る人によってその価値が異なるのは、その出来事にほどこす意味付けが異なるためだ。逆に言えば、良い意味付けをほどこせば、その出来事は良い出来事であると言える。

これの良い例が4話だ。この回において、彼女らはハナコに罰ゲームとして課せられた宿題である「幸福の花」を求めて街中を探し続けた。しかし時間切れとなり、ハナコは宿題の達成を諦める。さて、朝早くから頑張っていたハナコにとって、この一日は無駄な一日だったのだろうか。宿題の達成、という目的のみに焦点を当てたのなら無駄であり、まさしく不幸な一日と言えるだろう。 門の向こうには憂ひの都しかない。しかしハナコはこう言った。

「一緒に遊べたから楽しい一日だったよ」

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『あんハピ』4話より

この時、暁の門は凱旋門となった。彼女は今日という日に「宿題の達成」ではなく、「一緒に遊べた」という意味を与えることで、幸せな一日としたのだ。また、この流れからもう一つ重要なことがわかる。それはハナコがエネルゲイア的な人生を送っているということである。

今を生きる

エネルゲイアという、エネルギーの語源となったこのギリシア語は、アリストテレスによって作られた。その意味は可能性が実現しているということ。言い方を変えれば、現在進行と完了が同時に成立する行為である。例えば「見る」という行為は「見ている」と同時に「見てしまっている」のでエネルゲイアであると言える*1

では、エネルゲイア的な人生とは何か。それには古代ローマの詩人、ホラティウスの詩から答えよう。《Carpe diem / 今を生きる》である。過去に囚われるのでもなければ、未来という結果を求めるのでもない。今というこの瞬間を真剣に生きる。これがエネルゲイア的な人生である。

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By Tangopaso - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8015951

誤解の無いように言っておくが、エネルゲイア的な人生とは刹那的な快楽に身を任せ、目の前の課題から逃げまわるような人生のことではない。現実から目を背けるような事はせず、ただ今やるべきことに集中して取り組む。その行いは未来への準備としてではなく、今行った結果として未来がある。これがエネルゲイア的な人生である。

こうして今を生きているからこそ、ハナコは失敗しても後悔することがない。そしてやる気を失うこともなく前へと進み続け、最後にはたどり着く事ができるのである。

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『あんハピ』4話より

冷徹な大人

ハナコはアドラー心理学の指針に沿って生きているからこそ、不運であっても不幸ではないと述べた。このように生き、後は居場所となる共同体さえあれば悩むことはもうないだろう。しかし、ここまで読んでもなお、腑に落ちない人もいるのではないかと思う。世界に対する意識を変えたところで、問題は何も解決しないのではないか、と。

その疑問は正しい。悩みというものはアドラーが言うように、すべて対人関係に還元できる。だから意識を変えることで解決も可能だ。だが問題は違う。問題というものはそれ単体で成立している。これは意識の問題ではない。ではどうすれば問題を解決できるのか。今度は『あんハピ』に登場する大人を見れば分かる。

6話において、開運オリエンテーリングで山に登ったハナコ達にかつてない危機が訪れた。クマとの遭遇である。

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『あんハピ』6話より

この時のハナコたちを説明するのなら、パニック、の一言に尽きる。その結果、彼女たちの取った行動はまさに悪手。手持ちのビンをひたすら投げつけ、興奮したクマは彼女らに襲いかかった。だからと言ってこの状況では現実を受け入れろ、というのは潔く死ねと言うのと同じ。もはや解釈でどうにかなるというものではない。しかし、このあと彼女らは無事に助かった。それはなぜか。

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『あんハピ』6話より

先生が銃を所持していたから、5人は生きているのである。

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『あんハピ』6話より

先生が銃を所持していたのは偶然ではない。無線で情報を収集し、クマが脱走したと知ってその備えに用意したのだ。『あんハピ』という作品は主人公らの性質や学園を始め、設定こそ突拍子もないが、こと問題への対処となると非情なまでに現実的である。階段から落ちるならクッションで防ぎ、川に落ちるなら替えの服を用意しておく。それが答えなのだ。

問題というものは冷徹に現実を見据え、適切な手を打つ事によってのみ解決できる。問題が理不尽であり、それが自分に降りかかったのは不運なだけ、ということはありえる。しかし、その解決には運ではなく、現実を持って対処しなくてはならない。扉を開けたら青い鳥が逃げるというのであれば、風切羽を切り落とすべきなのだ。

終わりに

以上のように『あんハピ』という作品は、悩みと問題の両方についての対処を教えてくれる。だからと言って、見たその日から幸せになれる、というわけではない。人が変わるには時間がかかる。願いを持って、一歩前に踏み出し続けることが大事なのである。それが幸福に至る道なのだ。

さて、毎度のことながらこのような記事を書くと、そこまで深い意味は無いとか、お前の妄想だと言う奴が出てくる。それは違う。世界に客観的な事実はあるが、一般的な意味は無い。物語も同様。あるのは描かれていることだけであり、そこに意味は無い。意味は俺が与えるのだ。俺の主観的な世界においては。

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