本しゃぶり

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深夜アニメの性はなぜ奇妙に進化したのか

深夜アニメはあからさまに服を脱ぎ捨て、性器は光で隠蔽され、ハーレム制である―
深夜アニメの性は他作品と比べてじつは奇妙である。
性のあり方はその視聴のあり方を決定づけている。

企業の組織の“形態”と対比させながら、深夜アニメの奇妙なセクシャリティの進化を解き明かす。

まえがき

性的な場面はいつもわれわれの心を虜にする。性はわれわれに最も深い喜びをもたらすが、逆に苦悩の種となることもある。そうした苦悩のほとんどは、進化によって生じた特殊な表現による誤解から生まれるものだ。

本記事は、深夜アニメの性的な表現 (サービスシーン) がどのようにして現在のようなものになったのかを考察するものである。他の物語とくらべて深夜アニメの性の表現がいかに珍妙であるかについて、ほとんどの方はご存じだろう。何か特別な進化的淘汰圧が作品に働いた結果、あれは特異な存在になったに違いない。

深夜アニメの性がどのように進化したかを理解することは、それ自体興味をそそるものだが、その他の分野の戦略を理解するうえでもとても大切だ。その他の戦略とは、例えば併合、問題解決、イノベーションを起こす能力などである。私は、深夜アニメの奇妙に進化した性はそれらに通じると考えている。

二つの到達点

今期、すなわち2016年夏アニメにおいて、頭抜けた作品が二つある。『魔装学園H×H(ハイブリッドハート)』『アンジュ・ヴィエルジュ』である。この両作品は舞台設定はよくあるものだ。
異世界からやってくる謎の侵略者と戦うため、学園都市に能力を持った少女たちが集められる。
これについては今さら言うことはない。特異な点はそのサービスシーンの使い方にある。

魔装学園H×H

『魔装学園H×H』は性と戦闘が不可分なものとなっている。それは、主人公にHな行為をされることでエネルギーが回復し、パワーアップする、ということだ。この世界では敵と戦うため、パワードスーツ「ハート・ハイブリッド・ギア」を装着する。もちろん適合者は女性しかいない。しかし、この物語の主人公、飛弾 傷無(ひだ きずな)は男性でありながら適合者となった。彼のギアは戦闘には向かないが、特殊な能力を持っている。主人公はヒロイン達を抱くことによって,パワードスーツを回復させることができるのだ。

ゆえに主人公は司令官である姉の命令で、ヒロイン達を片っ端から抱くことで回復させる。人類の命運がかかっているので主人公に拒否権は無い。そしてその行為は日常よりも戦闘時に求められる。ヒロイン達がダメージを受け、倒れこむその時、主人公はその場でヒロインを抱き、性的な快感を与えることで回復・強化させて再び敵へと立ち向かわせるのだ。

『魔装学園H×H』2話より

このような作品であるため、『魔装学園H×H』の性と戦闘はシームレスにつながっており、サービスシーンを取り除いては物語が成り立たなくなる。この設定から無駄のない一体化された表現こそが『魔装学園H×H』の特徴なのである。

アンジュ・ヴィエルジュ

ではもう一方の『アンジュ・ヴィエルジュ』はどうなのか。この作品の異様さは設定ではなく時間配分にある。記念すべき第1話、見せ場である戦闘が3分続いた後、世界観の説明が1分半語られる。そしてOPが終わるとそこは風呂であった。この入浴が11分以上も続くことになる。ひたすら風呂での会話が続き、ようやく出たと思ったら露天風呂へと向かう。場面転換しても映るのは別の浴場だ。その風呂への執着は『テルマエ・ロマエ』に匹敵した。

『アンジュ・ヴィエルジュ』1話より

現実の入浴ならいざしらず、物語において入浴のみでこれだけの時間を保たせることは不可能である。そこで『アンジュ・ヴィエルジュ』は浴場に大画面を設置した。これによって風呂に入りながら会議を行うことが可能となったのである。画面では入浴シーンが展開されていながら、そこでは反省会、口論、作戦会議が行われている。

『アンジュ・ヴィエルジュ』1話より

この作品は戦闘と銭湯だけで構成されているのだ。

両作品の違い

さて、両作品について説明を終えたところで、その違いについて考えよう。これら二つの作品は、基本は同じながら全く別方向に進化を遂げていることが分かるだろう。一方が性と戦闘を融合させているのに対し、もう一方は完全に分離させている。一体どのような理由でこのような相違が生まれたのだろう。このような違いにこそ、世界の仕組みを読み解くカギが隠されている。

ここまで読んで、私のことを、いらぬ説明をしたがる象牙の塔の研究者の典型と思われる方もいるかもしれない。世界中のオタクから「説明などしてもらう必要はない。エロければ何でもいいのだ。そこに意味は無い」という反論が聞こえてきそうだ。

残念ながら、この答は科学者を満足させてはくれない。エロければいい、というのであれば、『魔装学園H×H』は別に戦闘の中で行為にふける必要はない。帰還してからマッサージする、という形でもいいではないか。逆に『アンジュ・ヴィエルジュ』はエネルギーを消費したりダメージを食らう度に脱げていく、というスタイルにしても構わないはずだ。しかし実際はそうなっていない。

作品を生み出すには多くのコストが掛かるため、無駄な要素を入れるのは大変だ。ましてやアニメ化するまで売れた、となれば、その構成には必然性がある。だからそれを解き明かすことに価値があるのだ。

企業戦略

さて、この問題を解き明かすにいたって、私はあえてアニメやその他の物語から一旦離れ、別の領域からアプローチしたいと思う。その領域とは企業である。私達が求めている答は企業の組織形態にあるのだ。

企業の組織形態はアニメの構造とはかけ離れているように思えるが、本記事の主題を例証するものであり、とても参考になる。すなわち、アニメの性的表現は性以外の作品構造的要因によって形作られるということがよく分かる。さらにアニメと違って対象が企業だと、オタク知識でマウンティングされないので、理論の展開もやりやすいのだ。

交差点の力

まず『魔装学園H×H』だが、これを理解するのに必要な概念は交差点である。交差点と言っても実際の道路の交差点のことではない。異なる分野が交わるところの話だ。一番有名な例を挙げるのならば、やはりこれしかない。

スティーブ・ジョブズがAppleについて語る時に使う「我々はテクノロジーとリベラル・アーツの交差点にいる」というフレーズ。このような、異なる分野を結びつけることこそイノベーションの本質である。これは何もジョブズやAppleの専売特許ではない。フランス・ヨハンソンはこの状態を「メディチ・エフェクト」と名付け、ルネサンス期はまさに交差点によって生まれたと語っている。

なぜ交差点が重要なのだろうか。ヨハンソンによると、単一の分野で生まれるアイデアというものは、ある特定の方向に沿って生み出されていくのに対し、複数の分野が交差することで生み出されるアイデアは、新しい方向へ飛躍したものになると言う。このような交差的イノベーションには意外性があり、時には新しい分野を切り開き、新たな方向的イノベーションを生み出す源泉となるのだ。

このような交差点を見つけ出すには、何も外部から専門家を新たに連れてくる必要はない。組織の構造を組換え、部門間にある壁を取り払えば、既存の人材だけでも交差点を発見することは可能である。

この本では組織内で発生するサイロ構造 (各部門がタコツボ化すること) の弊害を説く一方で、その壁が崩れた時に生み出される力の大きさについても書いている。例えばこの中で紹介されている総合病院クリーブランド・クリニックは、まさに組織構造を組み替えたことで新たな価値を提供した。カテゴライズを医者ではなく、患者を中心に行うことで複数の角度から総合的なアプローチができるようになった。

以上のことを踏まえた上で『魔装学園H×H』を捉え直してみよう。この作品は「石鹸枠*1」系統から分岐した作品である。この系統における性的なシーンというものは、イベントとして存在するものであった。それはヒロイン選定の儀式であり、物語上重要ではあるが、決して根幹に据えるものではなかった。

しかし『魔装学園H×H』は性を根幹にして物語を再構成したのである。これによって最も影響を受けたのがヒロインの立場だ。 彼女たちの立場は飛躍的に向上した

石鹸枠におけるヒロインの役割とは、主人公にとっての動機戦力である。特にピーチ姫的な動機として使われる事が多い。というのも、ヒロインも戦力としては申し分ないはずなのだが、主人公を活躍させるためにどうしても弱体化してしまう。そしてヒロインを助けるために主人公が奮闘し、問題を解決することになる。つまりヒロインは戦うこともできるが、それ以上に助けられる者としての側面が大きいのだ。

『最弱無敗の神装機竜』12話より

だが、『魔装学園H×H』の主人公はヒーラーとして徹することにより、敵を倒すという華をヒロインに持たせることが可能となった。主人公がヒロインを助けるという構図は変更せずに、だ。主人公だけいれば解決するのでは、と言われることはもう無い。また、この分業制によってハーレム構造にも合理性が生まれたことも無視できないだろう。

『魔装学園H×H』1話より

また、このように交差点の発想で作られているためか、この作品の随所にはイノベーションを生み出すためのヒントが隠されている。一つ取り上げるのならば、試行回数を増やすことで偶然を必然にする、ということだろう。

もう一度スティーブ・ジョブズに登場してもらう。彼がデザインしたPixarの社屋の玄関には、巨大なアトリウムを設置された。そこにはカフェテリアやメールボックスなどを集中させ、どの社員も一日に何度もそこへ訪れるように仕向けたのだ。これによって異なる部署の社員とも出会う回数が増え、新たなアイデアが生まれる場として機能している。

一方『魔装学園H×H』の主人公は男性でありながら女子寮に住まわされ、その部屋は施錠できないようになっている。これは他の女子生徒との間違いが発生することを期待されての処置なのだ。まさしく、新しいものを産み出すためには出会いの数を増やすことが肝心であり、一つ一つを見れば偶然であるが、俯瞰して見ればそれは必然となるのである。

『魔装学園H×H』2話より

独立と保護

次は『アンジュ・ヴィエルジュ』について説明しよう。要素の統合、交差点の価値について述べたが、何でもかんでも統合すればよい、というものでは無い。時にはあえて分離させた方がいいのだ。

これについて知りたければ、買収した企業の扱い方に目を向ければよい。つまり、買収した企業を統合すべきか独立状態にしておくか、ということである。クレイトン・クリステンセンによれば、被買収企業の成功を導いた本当の要因がプロセス価値基準にあるならば、親会社への統合は絶対に避けなければならないと言っている。

もし下手に統合すると、親会社の価値基準で判断されるようになり、せっかくの強みを失ってしまう。こうなるのは、新しい分野というものは既存の価値感だけでは判断できないからである。その新企業が持つ価値が、旧態然とした親会社では評価されない項目であることが、往々にしてあるのだ。なのであえて買収しても統合を避けておき、自由にやらせたほうが得であると言える。

あえて分けておいた有名な例としては、GoogleとYouTubeの関係がある。GoogleはYouTubeを16.5億ドルという大金を支払って買収したにも関わらず、関与は最低限にとどめておいた。ブランドとして残しただけでなく、オフィスもそのままにしておき、Tシャツよりアロハというような文化にいたるまで手付かずにしておいたのである。Googleは自分のやり方で動画サイトの運営を失敗していたのであるから、上手く行っているところに水をさしたくなかったのだ。

買収以外にも、社内起業のように新しい価値観が必要となるものは、上からの関与は少ないほうがよい。この時のポイントとしては、組織構造上だけでなく、物理的にも本社から距離を置くことが重要であると、日産フューチャーラボのイヴァン・オリビエは語っている。それこそが思考と創造の独立性を保つのだ、と。

ここで『アンジュ・ヴィエルジュ』に視点を戻そう。この作品の原作はマンガやラノベではなく、トレーディング・カードゲームである。このメディアの違いを理解しなくてはいけない。このカードゲームには脱衣が無い*2ということを。

この作品はプレイヤーを描くのではなく、ゲームの世界観を描いたアニメである。そのため、アニメにする際にはそのゲームの雰囲気から逸脱してはならない。特に戦闘描写は重要で、可能な限りそのままであることが求められる。そうするとシステムに脱衣が無いため、いかにキャラクターが扇情的な格好をしていようとも、戦闘はその独立性を保つ必要がある。

これに対するソリューションが、アニメ独自の脱衣をゲームでは描かれていない領域*3に詰め込むことであり、風呂なのである。これによってゲームの雰囲気を傷つけぬまま、性的なシーンをふんだんに入れることを達成したのだ。

この風呂を使う、というのは戦闘と性を分離し、自然な脱衣を行うのに有効な手法だ。特にわかりやすい作品としては『ガールズ&パンツァー』が挙げられるだろう。

『ガールズ&パンツァー』3話より

この作品も戦闘は徹底的に戦車を主役として描き、余計な要素は排除されている。さらにタイトルとは反してパンチラが皆無*4であることは周知のとおりだ。そこで戦いの後に入浴を持ってくることにより、脱衣の確保を達成している。戦闘を純粋に戦闘として描くなら、風呂を用意するのが王道なのだ。

系統樹

さて、逆方向に進化した二作品について、それぞれの構成がなぜこうなったのか、ということについて説明してきた。『魔装学園H×H』は新しい価値を生み出すために要素を組み合わせ、『アンジュ・ヴィエルジュ』はカードゲームを活かすために風呂を用意した。しかし、これだけでは片手落ちである。なぜなら異なる点については語っていても、共通点については何の説明もなされていないからだ。

おそらく、読者の中には「深夜アニメだからといって、性的な表現をそこまでして入れる必要は無いのではないか」と思う人もいるだろう。実際、深夜アニメでもそういった要素が皆無と言っていい作品もあるのだから。もちろんこれには理由がある。それを知りたければ作品の系統樹を調べるのが近道だ。なぜなら物語というものは生命と同様、その先祖の形態に束縛され、そこから変化していくものである。

というわけで細かい話をする前に、今回取り上げた二作品の系統樹を見てもらおう。

物語の系統樹は本来もっと複雑なものであり、生命以上に混みあったものである。ここでは分かりやすさのために要点を絞り、思い切ってシンプルにしてみた。

『魔装学園H×H』も『アンジュ・ヴィエルジュ』共に石鹸枠の系統から分岐した作品であり、さらに遡ると共通の祖先は聖書である。したがって気にすべきは以下の2点。

  • あの性表現は聖書由来であるのか
  • 石鹸枠はどれほど聖書の影響を受けているのか

ではこの2点について確認してみよう。

創世記

すでに述べたように、石鹸枠における性的なシーンとはヒロイン選定のイベントであり、基本的には物語の冒頭に行われる。世界観の説明がなされたのなら、次はキャラクター登場、そして儀式というように。

では聖書ではどうだっただろうか。まず第一章でヤハウェによる世界設定がされる。そして第二章、さっそくメインキャラが登場し、男女の出会いが展開される。

Albrecht Dürer - Adam and Eve (Prado) 2.jpg
By アルブレヒト・デューラー - Galería online del Museo del Prado de Madrid: Adán y Eva, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=150385

聖書由来ということがはっきりした。やはり物語の冒頭で起こるのは男女の出会いであり、その時は裸であるべきなのだ。このテンプレは2300年以上の歴史を持った、由緒正しきものなのである。

近親異種交配

石鹸枠はどれほど聖書からの影響を受けているのだろうか。序盤の展開や「油注ぎ」などが知られているが、他にはあるのだろうか。当然ある。特にはっきりしているのは、石鹸枠の特徴の一つ「学園都市」である。

『魔装学園H×H』1話より

この手の作品は、主人公が学生であり、舞台も学校である。だがその実態は日本で見受けられる学校とは少々異なる。

  • 学園都市と呼ばれる程に大規模
  • 自治権を持ち、教師や学生の権限が強い

日本にも「学園都市」と呼ばれる都市はいくつかあるが、ここまで極端な存在ではない。このような学園都市はフィクション特有のものと考えるべきだろうか。そんなことはない。現実にこれらを満たす学園都市は存在したのだ。その名は《ウニベルシタス / universitas》。“university”の語源にしてギルドを意味するそれは、中世ヨーロッパに誕生した近代大学の始まりの姿である。

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By Laurentius de Voltolina - The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=160060

このころの大学というものは地域によっても異なるが、教師と学生によって構成されていたギルドである。建物ではなく、集団から始まっているのだ。したがって街全体が言わば学校であり、使える場所ならばどこでも講義は開かれた。そして教育を求めて学生たちは各地から都市に集まり、そこはまさに学園都市となっていたのである。

そして12世紀には早くも大学に自治特権が与えらる。神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世は、ボローニャ大学の教師と学生を皇帝の保護下に置くと宣言し、特権状を与えた。

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By unknown illustrator - Digital image from http://crusades.boisestate.edu/Europe/germany11.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15082

これはローマ教皇もすぐに倣うことになる。そのことが仇となって好き勝手する学生も現われ、犯罪行為も当然のごとく行われることさえもあったという。

以上のような中世の大学は、まさしくアニメにおける「学園都市」のモデルと言えるだろう。広さや権限、さらに治安の悪さにいたるまで引き継いでいる。

ところでこの中世の大学であるが、キリスト教システムの一部と言っても過言ではない。なにせ上位三学部の中で最も権威があるのは神学部であり、教会内で出世するためには大卒であることが必須であったのだから。さらに大学以前の教育現場とは修道院である上、大学にしてもその多くはカトリック教会の後援によるものなのだから。

ゆえに先の系統樹はこのように修正される。

この系統樹は生命ではまず見ない構造となっている。それは一度分岐した枝が再び一つになる、ということだ。これは物語を含む文化の特徴である。生命の場合、基本的に交配というものは同じ種の中でしか行われない。行われることはあっても、それはかなり近い種の間で起こることであり、間違っても馬と白鳥が交配するということは無い。

しかし文化の場合はそのような制限は無く、全く異なる分野との交配が起きる。その話はすでに交差点のところで行ったとおりだ。

こうして見ると、石鹸枠は「聖書」と「聖書から生まれし学園都市」によって作られていることが分かる。つまり、聖書の血*5を色濃く受け継いでいるのだ。性的なシーンが存在するのも、適応度が高いというだけでなく、元々持っていた要素なためである。また、主人公が説教をするのも、率先して犠牲になるのも、遺伝によるものと言えるだろう。全ては進化で説明できるのだ。

あとがき

本記事は "Why Is Sex Fun? : The Evolution Of Human Sexuality(1997)"(『なぜセックスは楽しいか? ヒトのセクシュアリティの進化』)の翻訳である『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか 』のパロである。著者のジャレド・ダイアモンド博士はカリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部生理学科の教授である。と同時に、ニューギニアを舞台にした鳥類の研究で長年にわたり第一線の業績をあげてきた、著名な進化生態学者でもある。おそらく日本語で書かれたこんなブログを読むことは無い。

前の記事で進化論について取り上げたところ、当然分かっている人もいる一方で、進化とは何なのか理解してない人も多くいる、ということを知ってしまった。20年も続くポケモン人気を見ていて、日本人は進化よりも変態のほうが性に合っているのではないかと思い、今回このような記事を書くことにした。

元ネタでは、読書案内と関連した原著論文の紹介があるので、ここでも参考にした本を挙げておく。もちろん邦訳のあるものだけである(順不同)。

前の記事

続き

*1:石鹸枠とは (セッケンワクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

*2:あくまでもシステムとしての話であり、イラストとしては存在する。

*3:アクションカードでは戦闘以外も描かれているが、それはメインではなく、世界の一部を切り取ったものに過ぎない。

*4:別に反してはいない。

*5:おそらくサイゼリヤで飲める。