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【鬼滅の刃】栗花落カナヲの下半身について

栗花落カナヲが履いているキュロットって何?
大正時代にあったの? 袴との関係は?

調べてみました。

21巻で明かされた真実

『鬼滅の刃』の21巻が発売された。

本書で読者に最大の衝撃を与えたのは間違いなく隊服だろう。我々は前田まさおの技に騙されていた。

ゲスメガネ、お前というやつは……
『鬼滅の刃』21巻

蟲柱の継子、栗花落カナヲが履いていたのはスカートではなく、キュロットだったのである。このブログの読者はファッションに疎そうなので説明すると、キュロットとはズボンのように股下があるスカートである。

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User:Lumi iori, files merged by User:Mabalu / CC BY-SA, Link

ハーフパンツなどとの区別は曖昧だが、基本的には裾がスカートのように広がっているものだと思えば良い*1

さて、カナヲの隊服だが、落ち着いて初期のシーンを見返してみると、確かにプリーツの形状から二股に分かれていると推察できる。

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『鬼滅の刃』6巻

完全に見落としていた。カナヲの隊服については前に言及したことがあったが、普通に「スカート」と書いていた*2

しかし見逃していたのは俺だけではない。上の記事は多くの人に読まれたが、スカートに突っ込んだ人は誰もいなかった。人は一つのことに注目すると、他のことに気が回らなくなる生き物である。誰もが丈の長さに注目し、構造について考えもしなかったのだ。

だから21巻で明かされたことで、衝撃を受けた人は俺以外にも多くいた。Twitterで「カナヲ」と入力したところ、予測に「カナヲ キュロットパンツ」「カナヲ キュロット」と表示されるほどである。

Twitterの検索候補

これで様々な反応を見ていると、やはり前田に対するコメントも見受けられる。「前田はすごい」と。そこで疑問が一つ浮かぶ。「大正時代にキュロットがあっていいのか」と。気になったので調べてみた。

合理服協会

今回問題とするのは婦人服としてのキュロットなので、話はヴィクトリア朝時代のイギリスから始まる。

George Hayter / Public domain, Link

19世紀の後半、欧米では上流階級の中から服飾改革運動が起こっていた。対象は婦人服である。コルセットによる締付け、大きく膨らまされた重いスカート。当時の上流階級の婦人服は、肉体的に女性を縛り付けるものだったのである。

かつてはそれでも大きな問題とならなかった。上流階級の女性ならば動く必要は無かったからである。しかし、鉄道の発達で流れが変わる。旅行がブームとなり、女性も外に出る必要が増えたのだ。また、「新鮮な空気を取り入れることが健康に良い」という言説の広まりも、後押しした。人々は新鮮な空気を求めて、空気の良い郊外のリゾート地へ向かい、新しく登場したスポーツで体を動かすのだ。

そうなると"伝統的な"婦人服は、行動を縛るものとして見られるようになる。そのため女性参政権や解放運動と連動して、婦人服をより健康で活動的なものにしようとする運動が生まれたのだ。この流れでアメリカではブルマが誕生する。

イギリスでは1881年フロレンス・ハーバートン子爵夫人を中心に合理服協会が設立される。健康で快適な美しい衣服を着用できることを目的として運動を開始し、完璧な合理服の条件を提示した。

  • 動きやすい
  • 体のどの部分も締め付けない
  • 衣服の重さを保温に必要な分に留める (3kg以下)
  • 優雅と美が快適と便利さと共存する
  • その時代の服装と著しくかけ離れない

現代の人間からすると「えっ そこから」というレベルだが、それでも当時のイギリスとしては画期的だった。

合理服を広めるため、合理服協会は1883年にロンドンで「合理服展覧会」を開催する。そこで展示された中で最も注目を集めたのがキュロット (ディバイデッド・スカート) だったのである。

初期のキュロット

ブルマもそうだったが、当時のキュロットは今のものとデザインが大きく異る。ポイントは膝下部分にプリーツがあることだ。

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Ada S. Ballin / Public domain, Link

このプリーツはスカートに擬態するものである。当時の欧米では法律で女性のパンツスタイルが禁じられていたからだ。パンツスタイルは男性の服装であり、異性装はすべきではない。聖書にもそう書いてある。

女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。
申命記 (口語訳) 22:5

だから隠す必要があった。なので当時はキュロットの上からスカートを履く。この時に履くスカートは、キュロットと同じ布地で作るのがポイントである。そうすることで普通のスカートを履いているように見えるのだ。中でも合理服協会会員のルイス・ベック夫人がデザインしたキュロットは素晴らしく、外見上は普通のドレスと見分けがつかなかったという。

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signature M KAda S. Ballin / Public domain, Link

こうしてキュロットは誕生した。しかしまだスカートとセットである必要があり、デザインも洗練されていない。ではどのようにして今のキュロットへと繋がるのか。そこには一人の日本人の影響があった。

前田の前に島田

合理服協会の1889年7月号の会報誌に、一人の日本人男性との交流があったことが記されている。その日本人とは政治家・ジャーナリストの島田三郎である。

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Unknown author / Public domain, Link

1888年、毎日新聞社を退職した島田はアメリカを経由してロンドンを訪れる。翌1889年は、ロンドンを出発してドイツ・フランスと見て回った後、再びロンドンに戻り、7月まで滞在していた*3。日本女性に衣服改革をもたらそうと考えていた彼は、この時に合理服協会と交流したようだ。

島田は一方的に合理服協会から教えを請うていたわけではなかった。彼は合理服協会の会員に日本の衣服を渡す。それは男袴である。

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Hiart / CC0, Link

会員たちは袴を「優雅なプリーツの入った合理的なスカート」であると称賛する。日本の男袴は大きな襞によって、分け目が外見上わかりにくい。合気道では足運びを隠すために袴を履くという。その袴の特性が、ヨーロッパの婦人の脚部を隠すのにも都合が良かったのだ。

島田の渡した袴を原型に、新たなデザインのキュロットが作られ「ウィルソン」の名付けられる*4。プリーツがよく似ていることを考えると、現代のキュロットは男袴に端を発していると思われる。

残念なことに、島田による衣服改革は立ち消えすることになった。明治政府が欧化政策を国粋主義政策に転換したからだ。そのため日本の女性は和服に戻り、女子高等師範学校の制服からも洋服が消えてしまう。だが年号が変わると、また洋服が広まるようになっていく。前田まさおの時代が始まるのだ。

前田まさおの時代

大正時代は1912年7月30日から1926年12月25日までだ。島田が渡した男袴が合理服協会で優れたキュロットと扱われたのは1889年なので、それより後である。更に言うと島田が無くなったのは大正である1923年だ。このことから何が言えるだろうか。カナヲがキュロットを履いていてもおかしくないということだ。

前田が男袴から着想を得てキュロットをデザインしたというのもありえるが、そもそも島田の話を知っていたかもしれない。島田には多くの著作・評論があり、その中には女性についての話もある。海外へ行く前から『女学雑誌』でコルセットの有害性について語っているほどだ*5。海外視察中も欧米婦女子の状況について書簡を出している*6。なので前田がキュロットと袴の話を知っているのは不自然ではないのだ。

ではカナヲのキュロットの丈が短くなったのはどうか。これについては前の記事でテニスの例を挙げた。女性が脚を見せることが卑猥だと思われていた時代に、テニスで勝つためにスカートが短くなっていったと。実はキュロットでも同様なことが起きている。スペインの女子テニス選手リリ・デ・アルバレスは、エルザ・スキャパレッリがデザインしたキュロットを履いて1931年のウィンブルドンに挑んだ。

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Béla Kehrling / Public domain, Link

例によって最初は批判があったが、やはり動きやすいという優位性に勝るものは無い。1930年代を通じて、丈の短いキュロットもしくはショーツスタイルのテニスウェアが広がっていったのである。

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State Library of New South Wales collection / No restrictions, Link

とはいえこれは鬼滅の時代よりおよそ20年先のこと*7。丈の短さを指摘された前田に出せる例は無く、すっとぼけるしかなかったのだろう。

終わりに

結論としてもう一度書いておこう。カナヲの隊服がキュロットであることは時代的におかしくないと言える。キュロットは19世紀末に存在していたし、男袴がモデルのものも作られている。一般的な衣服でなかったとしても、存在しても不自然ではないのだ。

今回調べてみて良かったのが、ブルマとの関連性について。初期のキュロットは明らかにブルマから発想を得ているし、その後の広まり方も似ている。本文では話題が散らかるので飛ばしたが、キュロットも自転車に乗るために履かれている。また、ミニスカートとはテニスで繋がった。このように元々持っていた知識と新しく調べたことが繋がるのは実に面白い。

ところでコスプレ衣装はキュロットなのだろうか。

参考書籍

この記事を書くのに使った本。手元に置いておくとこういう記事をさっと書けるから良い。

『女性の服飾文化史』

恋柱の記事やブルマの記事でも使った本。フランス革命から現代までの女性の洋服の歴史を幅広く扱っている。こういう網羅するタイプの本は繰り返し使うことができて便利。

『下着の誕生』

メインは下着だけど、それに伴って婦人服についても色々書いてある。副題が「ヴィクトリア朝の社会史」とあるように、ヴィクトリア朝のイギリスでどのように女性の下着が進化したかを書いている。キュロットがヴィクトリア朝に誕生したものなので役に立った。

関連記事

本文中でも紹介しているが、最後にも貼っておく。

*1:本記事では婦人服としてのキュロットについて語るので、男性貴族が着用していたキュロットについては言及しない。

*2:もっとも、キュロットはスカートの一種なので、あれを「スカート」と呼んでも完全に間違いというわけではないが。

*3:島田三郎年譜・著作目録

*4:会員のアンドリュー・ウィルソンにちなんでつけられたと言われている。

*5:島田三郎君来報 婦人洋服 コルセツト有害の事「9 月 8 日付巌本善治宛書簡」『女学雑誌』133、1888年10月27日

*6:島田三郎君通信 欧米婦女子の景況一斑「10 月 29 日付巌本善治宛書簡」『女学雑誌』140~143、1888年12月15、22、29日、1889年1月5日

*7:鬼滅の刃の時代は大正初期と思われる。詳細は右のサイトが詳しい。 いま、大正何年? | 鬼滅語り ~鬼滅の刃・随感録~