もちろん馬から落ちて目が見えなくなるパウロだ。
ネタに困ったら聖書を開くのがクセになりつつある。
寄稿2回目
寄稿したのはこの記事。
いかにして自分の趣味を布教するべきか、布教のプロであるパウロに学ぼう、という内容である。毎度のことながら、読むと1つ勉強になった気になれるタイプの記事だ。きっと役に立つ。
今回はまずパウロについて書こうと思い、それからパウロにふさわしいネタを考えた。パウロと言えば布教活動、ならば趣味を布教するのにも参考になるのではないか、と。
ではなぜパウロなのかというと、奴が語りかけてきたからである。
お告げ
2週間前、俺は悩んでいた。寄稿を引き受けたはいいが、ちょうどいいネタがあるわけではない。なのでまずは俺が書けそうな要素をノートに書き出し始めた。
「進化」「ローマ」「聖書」「偉人」「おっぱい」「キリスト教」「らせん階段」「カブト虫」「廃墟の街」「イチジクのタルト」……
夢中になって書き連ねていたら、フッと声が頭の中に響く。
「なぜ私をネタにしないのだ」
信心深い人からは「お前のような無神論者に聖パウロが語りかけてくるわけがないだろ」と言われそうだが、当のパウロ本人は許してくれるはずである。なぜなら、あいつも同じことをして成り上がったからだ。パウロの語るイエスは、自分の妄想の中に現れたイエスである。妄想を根拠に話さなかった者だけが石を投げなさい。
連鎖反応
パウロのことが頭に浮かんできたのは事実だが、別に奇跡を体験したわけではない。こうなったのは最近この記事を書いたからだ。
イエスの行動をどうやってQCストーリーにまとめようかと考え、パウロの言動を主軸に据えることにした。こうすることで生前のイエスの活動についてまるっと省略でき、磔刑と復活だけに集中することができるからである。
しかし俺はパウロについてほとんど知らない。そこで手持ちの本に加え、パウロについて書かれている本を何冊か買って読んだ。だから俺の中に、パウロが強く印象に残っていたというわけである。
こうして俺は無事に『わたしのネット』の原稿を執筆できたわけだが、連鎖反応はまだ続いた。パウロのために買った本を読んでいたら、気になる記述を見つけてしまったのだ。
そのローマ兵の一人が、神聖な祭儀の最中にズボンをずり下げて、裸の尻を下方の境内にいる参列者に見せたら面白いだろうと考えた。抑制のきいた文章を心がけたヨセフスによれば、「そうした仕草を見た時に想定されるような叫び声」が儀式の間中飛び交ったという。
レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』
「バカッターじゃあないか!」
こうして前回の記事が書かれることになった。
終わりに
その場のノリで進んでいくと、思わぬ所へたどり着くことがある。俺にとって聖書ネタはまさにそのパターンだ。ふとネタを思いついたから書くために調べる。調べたら新しいネタを見つける。これを繰り返したことで、どんどん深みへハマっている。いったい何の導きによるものなのか。
俺は神を信じないので、『ランダム』と答えるしかない。