本しゃぶり

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節分にピーナッツで邪気を払う

今日は節分の日なので。

豆の日

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今日は節分であり、すなわち豆の日である。人によっては節分でイメージするのがイワシかもしれないし、恵方巻きかもしれない。だが俺にとっては誰がなんと言おうと豆の日だ。さらに言えば豆は豆でもピーナッツのことを指す。俺の中で「地球上から消えて欲しい植物ランキング」第一位に君臨し続ける豆だ。見栄えを良くするために画像を上に貼ったが、見るだけで吐き気がする。理由は割りと単純で、俺がピーナッツアレルギーだからだ。そんな毒物が毎年決まって給食に出てきていたのだ。印象に残って当然だろう。

俺の育ったところでは節分の豆=ピーナッツだった。本来鬼が苦手なのは大豆である。それは大豆が五穀の一つであるため穀霊が宿るとされていたからだ。さらに大豆は炒っているため「射る」に通じ、そこから「魔の目(魔眼)を射ることで魔を滅(魔滅)する」となる。ダジャレにしか思えないが風習というのはそういうものだ。それなのに同じマメ科だからといってピーナッツを使うのは愚かとしか言わざるを得ない。おそらくピーナッツを使おうと提唱したのは鬼の手先だろう。見つけたら節分に限らず大豆をぶつけてやる。

強襲か奇襲か

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節分における豆の役割は二つある。まず歳の数だけ食べるというもの。これも本来は「炒ることで邪気を払った福豆を体内に取り入れ、一年の健康を願う」ということである。だが、これがピーナッツに変わった場合は全く逆の意味を持つ。つまり「俺の成長具合に応じて毒の量を増やす」ということになる。完全に殺しに来ている。死ねば健康を気にしなくていいと考えれば、趣旨に反しないかもしれないが。

ただ節分のピーナッツはマシな方である。ちゃんとピーナッツの形を保ったまま堂々と出てくるからだ。ピーナッツの厄介なところは時には潜伏し、時には擬態して俺に迫ってくるところにある。まず厄介なのがピーナッツバターへと変化した場合。完全に姿を消し、ありとあらゆる料理に入ってくる。ありがちで面倒なのがカレーだ。なんでも、コクを出すために入れているという。俺にとっては酷なだけである。

他に面倒なのがピーナッツ和えという擬態料理。これはパッと見でゴマ和えと区別がつかない。これで痛い目に会うと、ゴマ和えも食べるのに躊躇する。店とかでゴマ和えを出されると身構えてしまうのが常だ。すぐに店員に聞けるならいいが、弁当などでそれができないと箸で突きながら観察することになる。この場合、初期段階としてはピーナッツ和えが攻撃擬態としてゴマ和えを模倣していることになるが、そのうちゴマ和えがピーナッツ和えをベイツ型擬態していることになる。

豆をぶつける先

コンクリート棚台ブロック×1個

節分における豆のもう一つの役割が豆撒きだ。これも大豆を用いなければ意味はないのだが、これに関してはピーナッツを使うことを許さなくもない。なぜなら合法的にピーナッツを投げることが出来るからだ。日本人は食べ物を粗末にすることに対してやたらと嫌悪感を持つ。モノを大切にする事自体は大事だが、食べ物については完全に特別視されている。日本でうっかり「トマト祭りしようぜ」と言い出そうものならば、即座にその者の頭が潰れたトマトになるのはご存知のとおりだ。

そんな日本でも豆撒きならば合法だ。全力で食べ物(俺にとってはただの危険物だが)を投げることが奨励される。そこで俺は渡されたピーナッツを鬼の向こう側にある壁に叩きつける。ピーナッツを目の前から消し去るために。ピーナッツへの恨みをこめて。こうして俺の邪気は消えてゆく。節分のあるべき姿。