2014秋アニメの中で最も「アホアニメ」と言われているのは間違いなくこれだろう。
『俺、ツインテールになります。』
しかし本当にこれはアホアニメなのだろうか。俺にはそう思えない。なので俺がこの作品の読み解き方をレクチャーする。
なおこの記事はアニメ2話までに判明した情報だけで構成している。なので原作のネタバレは無いので安心してもらいたい*1。
背景
まずこの作品の設定についてアニメ2話までにわかったことを整理しよう。簡単にまとめるとこうなる。
主人公の男子高校生でツインテールフェチのコイツが
ツインテール幼女戦士になって
このような連中とツインテールを守るために戦う。
『俺、ツインテールになります。』1話より
なぜこの作品が「アホアニメ」と呼ばれているかという理由は以下の3点に集約できる。
- 異世界からの侵略者がツインテールを狙ってくる*2。
- 主人公がツインテールを守るために立ち向かう。
- その為に主人公(男)がツインテールの幼女戦士に変身する。
確かに一見バカバカしく思える。だがこの内容は少し視点を変えると名作と呼ばれるような作品にも使われる構成であり、また近い状況は過去だけでなく現代でさえ起きていると言える。これからそれについて順に説明していこう。
以後、この作品は『俺ツイ』と略す。
髪型は精神の具現化
髪型はただのファッションではない。人間は服を全て脱いでも髪は残る*3。髪型とは目に見える形で残るアイデンティティなのだ。そして髪型を奪われるということは支配されているということ他ならない。特に我々が住む極東ではそれが顕著だ。そのため髪を切るということは刑罰の一つにさえなっていた。
そのような自分が何者であるかを示す髪型を守るためならば人は命をかけてきた。その例を紹介しよう。
日本の場合
特に歴史に詳しくもない人でも知っている昔の日本の髪型を例に出そう。丁髷だ。
元々この髪型は兜を被るときにのみにする髪型であった。それが戦いの頻度が増えたことで武士は常時髷を結うようになり、それが武士のシンボルとなった。日本を支配したのが武士であることもあって、丁髷は実用的なものから精神的なものへと移り変わった。そしてそれは自分の立場に誇りを持っている者ほどそれは顕著になる。
日本のことなので今さら詳しく書くこともないと思うが、武士は明治維新まで支配する立場であり、自身の存在に高い誇りを持っていた。そしてそれを目に見える形で示していたのが刀と丁髷だ。そのためそのどちらかを失うと絶望に突き落とされる。例えば漂流していたところをアメリカのオークランド号に助けられ、その後アメリカに渡った彦蔵を手記にそれがよく表れている。
彼はアメリカ人の喋ることに何となく頷いていた結果、彼の丁髷は切り落とされてしまった。その時彼は「私の心は悲しみに突き落とされた。」と書いている。なんという悲劇。ただ散髪されただけというのに。
また、それだけの髪型なので他人がそれを手放そうとすると強く反対があったのもまた事実。例えば伊藤博文はイギリスに密出国する際、その覚悟の証として断髪を決行した。しかし土壇場でイギリス人の船長が「やっぱムリ」と言い出す。それに対して伊藤は「すでにこの頭になった以上外に出たら密航の企てがバレて縛り首だ。それならここで腹を切る。」と言い放った。髪を切るということは腹を切る覚悟もしなくてはいけなかったのだ。
しかし武士の誇りが髪型と刀であったことを踏まえると、テイルレッドが剣を持って戦うのは髪型の守護者として当然の帰結といえるだろう。見た目は幼女でも武士の系譜を継ぐ者か。
『俺、ツインテールになります。』1話より
中国の場合
他にも昔の中国を例に出そう。明を滅ぼした清の統治者ドルグンは国民に辮髪を強制した。これは辮髪をさせることで中国人の心の拠り所を破壊するためのものだ。今でこそ昔の中国人のイメージはこの辮髪であるが、これは元々漢民族のものではなかった。
中国は儒教の影響が強いため、髪を剃る=親から頂いた体に刃を入れるということは許されないことであった。すなわち辮髪の強制は中国人の道徳観の完全な否定である。さらに中国人たちにとって自分たちより劣っているはずの蛮族の格好をさせられるというのは耐え難いほどの屈辱であったのだ。
その結果、各地で反発と抵抗がされ、多くの血が流れた。この事について『韃靼支那戦記』を書いたマルティニウスは「人々が国家のためではなく、自分の髪型のために命をかけて戦いを挑んだ。」と書き残している。これは決して誇張などではない。当時の民謡に「髪を留めれば頭留めず、頭留めば髪留めず」と歌われていたほどだ。
そしてこの辮髪の歴史が興味深いのはこの後である。中国の辮髪はもともと漢民族にとっては屈辱の証であるはずだったが、それも300年間もやっていればそれが当たり前になる。その結果、辛亥革命の頃に辮髪を切ることに反対した人達も大勢いた。なぜなら辮髪が中国の伝統となっていたからだ。もう、清の支配は終わりを告げたというのに。
この辮髪の歴史から見ると、ご都合主義にも思える敵を倒すとツインテールが復活する描写も納得がいく。
『俺、ツインテールになります。』1話より
敵の支配が終わったのだから髪型が戻るのは当然として、記憶が戻るのも髪型が精神とリンクしている以上当たり前のことだ。しかし一定時間経つと倒しても戻らないというのは、自分たちが何者でどのような文化を持っていたかを長い年月で忘れてしまうのと同じ構図だ。
ちなみに東アジアにおける髪型の話はこれが詳しい。この記事も参考にしている。
西の場合
ついでに書いておくと、髪型で立場を表すというのは何も東アジアだけに限ったことではない。西側、ヨーロッパでも同じことだ。1世紀のローマで起こった「ガリア帝国創設」の反乱の首謀者、ユリウス・キヴィリが例としてわかりやすい。彼がローマ軍補助部隊の指揮官をしていた頃はローマ風に頭髪を短く刈り髭も剃っていたが、ゲルマンとして反乱を起こした時には長く伸ばした頭髪を風になびかせ、髭は顔下半分を覆っていたという。彼はなびく髪に誓って自分の立場と決意を明確にしたのだった。
擬似民族
さて、髪型の重要性を説明したわけだが、この『俺ツイ』という作品はジャンルとして何に位置づけられるだろうか。パッと見た限りではプリキュア的な美少女変身モノを下地にしたギャグアニメに思えるだろう。だがそれはそれは表層的なもの、言わばウィッグにすぎない。これの本質は擬似民族モノ言うべき作品だ。
家族から民族へ
近年のアニメ界隈の傾向として擬似家族モノというジャンルが目立つようになってきた。おそらくアニメにおける擬似家族モノはハーレム系からの発展だと思われるが、主人公(男)の周囲に美少女が集まってきて「皆で仲良く暮らす」というスタイルになっている。このジャンルの特徴として美少女が皆主人公のことが大好きなのだが、美少女同士で反目しあうことはなく仲良く共有するという形となっている。最近の作品で代表的なのが『六畳間の侵略者!?』だろう。
この作品は正に擬似家族モノであった。物語の舞台がアパートどころかその一室にしか過ぎない。さらにアニメを見る限りでは過去に関係があるにしろ、全く血のつながりが無いまっさらなな状態から物語が始まる。そしてなにしろキーアイテムであるお守りが「家内安全」だ。あの作品は擬似家族モノの見本と言っていい。
それを踏まえた上で『俺ツイ』を見てみると彼が守ろうとしているのは身近な人でもなければ、人類全体でもない。ツインテールである*4。つまり彼が守ろうとしているのは共通の文化を持った人達なのだ。もうこれは一つの民族を守護しようとしているに他ならない。つまりこの『俺ツイ』という作品は擬似家族をさらに発展させた存在、すなわち擬似民族モノなのだ。
ツインテールの一族
もう少し詳しく説明していこう。まず第一に上でも書いたが髪型と民族は切っても切り離せない関係にある。今でこそ街には多種多様な髪型で溢れているが、歴史的に見ればこちらのほうが珍しい。つまり同じ髪型をしているということは実質的に同じ民族であることは確定的に明らかだ。
そう言うとつい「いくらなんでも突拍子もない」と反論したい人もいるだろう。だがそんなことはない。血筋に関係なく、共通の文化を持っている人達をまとめて〇〇族と呼ぶのは昔からある。例として「暴走族」「竹の子族」「フィギュア萌え族」なんかが俺的にはパッと思いついた*5。これらと比較してみたらツインテールの人達を民族扱いするのはそうおかしいことではない。
そして第二にツインテール以外の人間とも共存しているという特徴がある。あの学校ではツインテールの存在感が大きいが、他の髪型の女子も多々いる。つまりあの学校は決して「ツインテールの国」というわけではない。そのため状況としては、いくつかある民族の中の一族であるツインテールという形のほうがしっくり来る。
そこから考えるとこの生徒会長の立場もよく分かる。民族の証であるツインテールを装備し、皆を束ねる立場にいる。つまりコイツが一族の長だ。
『俺、ツインテールになります。』1話より
生徒会長という役職は投票で選ばれ、1年間という期限があることを考えると古代ローマにおけるコンスル(執政官)が近いだろう*6。さしずめこのメイドたちはリクトル*7といったところか。
『俺、ツインテールになります。』2話より
それらを踏まえた上で1話ラストを見返すと真の意味がよく分かる。
生徒会長の「また、お会いできますか?」に対してテイルレッドはこう返す。
「はい、あなたがツインテールを愛する限り」
『俺、ツインテールになります。』1話より
これはつまり訳すとこうなる。
「民族の誇りを忘れるな」
身内となる救世主
では最後の大きな疑問となる「なぜ男である主人公がツインテールの幼女戦士に変身するのか」について答えよう。それは身内になることで当事者となるためだ。
当事者になってわかること
この身内になるということが重要であるのは、自分が当事者となることで外野からでは分からなかった問題に気がつけるという点にある。身内になることで外野ではわからなかったこと、特に欠点などのマイナス要素は特に気がつくようになる。だが守る立場の者はそれを踏まえた上で対象を守るに値すると信じ、戦わなくてはいけない。その信じることが出来る理由もまた自身が同じ立場に身をおいたからだ。
『俺ツイ』の主人公は今までは完全に外からツインテールを愛でるだけの存在であった。そのため自分のしている行為がツインテール側にとってどのような存在であるのか気にしたことは無かったであろう。それが自分自身がツインテールになることで身を持って理解できるようになったのだ。
無意識に他人の髪をいじっていたが……
そのツインテールに触らせろと言われると
このザマである。
『俺、ツインテールになります。』1話より
その後もクラスメイト(男性)達から自分の変身した姿を「かわいい」と呼ばれて背筋が寒くなる。今まで自分が似たようなことを、いやそれ以上の言動をしていたというのに。
このような現象は現実でもあることだ。例えばオタク業界。かつては自分たちも相当のオタクであるのにいざ作る側になってみると、好き勝手言ってくるオタクがうざくて仕方ない。かつてオタクだったころは自分の言動にそれほど気を使っていなかったわけだが。
そのため『俺ツイ』でも主人公は真にツインテールのことを理解した上で、ツインテールを守るために戦う必要があったのだ。それでこそ他のツインテール達も主人公を支持することが出来るというものだ。
これは伝統である
以上の理由により、古今東西のヒーローたちも何かを守るために自分も同一の存在となってきた。これはもはや伝統である。人間を守るヒーローは人間に変身するのだ。
例えば『ウルトラマン』を例に出そう。あの作品もハヤタ隊員の視点では怪獣と戦うためにウルトラマンに変身するが、ウルトラマンの立場からすると人間を守るために人間となっているのだ。さらに次の『ウルトラセブン』*8ではさらに一歩進めてウルトラセブンは人間であるモロボシ・ダンに変身して社会に溶け込んでいる。そう、人間より圧倒的な存在でも人間を守るためには人間になる必要があるのだ。
この同一の存在になるというのは完全に同じでなくても構わないが、そういう奴はだいたい死ぬ。それが改心した奴だと助かるほうが奇跡。わかりやすいのが『ドラえもん のび太と鉄人兵団』のリルルだ。当初は人間らしい心を持っていなかったが、のび太やしずか達と交流することで見た目だけでなく心までも人間に近い存在になった。そして人間側に立ったがそのために消えた*9。
ドラえもんだと『海底鬼岩城』のバギーも似たような結末だ。
逆に元々同じ存在であっても別の存在になってしまっては守る事は困難となる。わかりやすいのが仮面ライダーの連中だろう。彼らは敵と同一の力で戦いに挑む。そのため場合によっては生物的には人間で無くなる。この時、精神的には自分が人間であり続けると信じ切れない奴は最終的に死んだり他の星へ行くことになる。
改めて『俺ツイ』の場合はどうか。守る対象はツインテールである。ならば当然主人公もツインテールにならなくてはいけない。この時主人公はツインテールを守る以上、ツインテールの中のツインテールにならなければいけない。ではツインテールとは何か。日本ツインテール協会によるとツインテールは世界各地に古くから存在する髪型であり、日本では「二つ結い」と呼ばれていたらしい。その運動のじゃまにならない形態は、健やかに育つ小さな女の子のためのものであったという。つまり小さな女の子に変身するのが圧倒的に正しいということだ。
未来に生きている
ここまで読んだところで何か既視感を覚えた人も多いだろう。それは当然のことだ。なぜなら最初に書いたようにこれと似たような構成の作品は一つのジャンルとして存在しているからだ。
映画を見る
有名どころを挙げるとまずこれだろう。
その圧倒的な美しさを誇る3D映像によって興行収入が歴代1位に輝いたジェームズ・キャメロンの作品『アバター』だ。これの他にもパッと挙げるならば原点とも言える『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や舞台を日本にした『ラスト サムライ』といったところか。
これらのストーリーを説明するとこうなるだろう。
- 主人公が人生の転機となる新しい土地にやってくる。
- 傷ついた主人公が助けられる形でヒロインと出会い*10、一族の集落へ案内される。
- 最初は皆から信頼されない主人公。
- 何だかんだ言ってヒロインが主人公と仲良くなる。
- 一緒に生活するうちに受け入れられ、完全に一族の一員となる。
- 過去の主人公と同じ立場の者達が侵略者として攻めてくる。
- 主人公は一族として先頭で立ち向かう。
例として挙げた映画であるこの「3作品」は主人公が受け入れられるところから丁寧に描いていく。だが『俺ツイ』の場合はそんなじれったいことはしていない。物語は入学から始まる。つまり上でいうところの"5"からスタートしている。おそらくこの展開の早さによってこの作品の本質が見えていない人が多いのだろう。今さら同じことをやっても仕方ない。それにアニメ化ともなれば出来る限り見せ場が毎回欲しい。その点このスタートならば"7"を何度も使えるので好都合だろう。
新しい敵
一方で『俺ツイ』は例の「3作品」とは大きく異なる点がある。それは文化に対する侵略者の態度だ。「3作品」における侵略者達は文化を「野蛮なもの」「古いもの」「価値の無いもの」と完全に見下した態度で一貫している。これは物語開始における主人公の態度も同様だ。「価値の無いもの」が実は「価値があるもの」であったという形で物語は進んでいくのだ。
しかし『俺ツイ』では全く逆である。侵略者たちのほうがその文化=ツインテールに大きな価値を感じている。むしろ民族側=ツインテール女子達のほうがその価値を分かっていないように描かれている。この立場の逆転が『俺ツイ』の新しいところであり、現代における問題を正しく認識している。
ツインテールに命かけるって / 『俺、ツインテールになります。』2話より
今の時代の人、特に先進国の人達は伝統的な文化を「価値のあるもの」として捉えている。それは少数部族やいわゆる未開の部族のものでも同様だ。むしろそのような希少な物の方が価値があるとすらされている。一方当の本人たちは必要に迫られてやっているだけで大したものだと思わず、他にもっと便利な手段があれば躊躇いなく手放すこともある。
そして外部の人間たちは「その文化を守るべきだ」と言う一方で、自分たちが接触することによってその文化を失わせていく。正にパラドキシカルな存在と言えるだろう。この文化における観測者効果ともいうべき問題について、外部であった存在から当事者となった主人公がこれからどのような答えを出していくのか非常に興味深い。
したがって『俺ツイ』という作品は今の文化を取り巻く状況を描いているといえる。つまり過去の状況を描いている『アバター』などよりよっぽど先進的な作品というわけだ。
終わりに
さてこれで『俺ツイ』のレクチャーを終わりとする。一見アホアニメに見えるが、実はそうでないことを理解しただろうか。トゥアールの言葉を借りれば「アホと思うあなたがアホなんです」ということだ。反省してこれからは教養を高めていってもらいたい。
前回の「【2014秋アニメ】俺が視た31作品の優先順位が決定した」において『俺ツイ』を2位にしたら「なんでこんなアホアニメを」みたいな意見をもらった。やめろよまるで俺がアホみたいに思えてくるだろ。だからもう一度言おう。
「アホと思うあなたがアホなんです」
*1:俺の考察が後に物語で明かされるという可能性も否定できないが、それは偶然だ。なぜなら俺は原作未読でこの記事を書いている。
*2:正確に言えばツインテール以外のフェティシズムも含む。
*3:例外についてここでは記述しない。
*4:2話においてブルマ目当ての敵を倒していたが、あれはその後ツインテールも襲われる危険性があるからだ。あくまでも守護対象はツインテールである。
*5:なぜどれもいい意味で使われないのか。
*6:生徒会長は一人だけなのでディクタトール(独裁官)が近いと思われそうだが、これは任期が半年な上に緊急措置の制度である。執政官がカエサルとユリウスの年だってあったことを考えるとやはり執政官扱いでいい。だからってなんで古代ローマなのかというと、それは今のところ謎と言っておこう。
*7:古代ローマにおける用心の護衛をする役職。木の棒を束ねたファスケスという斧が目印。メイドといえば植物の枝を束ねた棒=箒を持っているようなものだ。
*8:正確には間に『キャプテンウルトラ』があるが。
*9:一応生まれ変わった描写はあるが。
*10:『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は立場が逆