豚丼は豚肉と米があれば作ることができる。
それなのに豚丼が誕生したのは昭和になってからのことだった。
豚丼の観点から日本史を見つめ直す。
北海道名物「帯広豚丼」
北海道の名物に「帯広豚丼」がある。甘辛いタレで焼いた豚肉を載せた丼飯だ。
しばらく前にこれを食べた時、ふと思った。「北海道で豚丼は異質すぎないか」と。
豚の祖先であるイノシシは、北海道に生息していない。稲作は北海道に適した農業とは言えず、新田を初めて試みたのは17世紀末とされる*1。豚丼の主な構成要素である豚も米も、本来は北海道で作るのに向いていないのだ。
「北海道開拓の前に豚丼があってもいいだろ」そう考えて調べてみると、これがなかなか興味深い。「豚丼が無かった」とは言えないが、それまで「豚丼が誕生しにくい」とは言えそうだ。米が主食になるにつれ、豚を食べる機会が減っていくからである。その様子を縄文時代から見ていこう。
イノシシと熱帯ジャポニカ
最初に豚丼の材料 (肉と米) が揃ったのは西日本では6000年ほど前、東北日本では3000年ほど前になる。地域によって時期が異なるのは、稲作が始まるタイミングによるものだ。この頃に豚丼らしきものを食べていた可能性はゼロではない。ただし肉も米も、現代と品種が異なる。
肉は家畜化された豚ではなく、イノシシの方だ。
イノシシは世界各地で家畜化され豚となったが、この時代の日本では家畜化はされず、もっぱら狩りの対象だったと言われている。家畜化するまでもなく手に入るからだ。肉の和語が「シシ」であり、カノシシ・イノシシと称されることからも*2、日本語が作られた頃からイノシシは主要な肉の供給源であった。それは宗教にも見て取れる。
縄文文化研究者の新津健は、春の出産期に入手した子イノシシを飼育し、秋から冬頃に殺して食べるとともに骨を焼く祭りがあったと指摘している。しかもこの祭りは広い範囲で行われており、イノシシが生息していない北海道にもその形跡がある。どうやら祭りのために本州からイノシシを運んだらしい。ただし、「これで豚丼が北海道名物に」と考えるのは先走りすぎている。弥生文化が広まると、この祭りは消えたからだ*3。
一方、米の方は現代主流となった温帯ジャポニカではなく、熱帯ジャポニカの品種が栽培されていた。この品種は水田ではなく畑で栽培する陸稲である。
陸稲は水稲に比べると手間がかからず、高度な道具も必要無い。実際、焼畑で陸稲を行っているラオスでは、農具らしい農具は山刀と穂積み具ぐらいらしい。焼畑の一年目は雑草がほとんど生えず、灰が肥料となるため、手間の割に収穫高がいい*4。土地が余っているならば焼畑は優秀な農法なのである。
従って縄文時代にも「豚丼らしきもの」を食べていた可能性はゼロではない。だが当時の生産量を考えると米単独ではなく、混ぜご飯的に食べていた方がありえるだろう。やはり豚丼を食べるなら水田が必要だ。
豚と温帯ジャポニカ
2500年から2700年ほど前になって、ようやく本物の豚丼の材料が大陸からやってくる。家畜化された豚と温帯ジャポニカだ。渡来人によって稲作が伝わったというのは歴史の授業でお馴染みだが、実は一緒に豚もやってきたのである。
国立歴史民俗博物館教授の西本豊弘は、弥生時代の遺跡から発掘された「イノシシ」について、後頭部や下顎の形質から豚だと判断している*5。また、解体の仕方も縄文時代のと異なることから、渡来人が農耕技術と共に豚を連れてきたのではないかと推定している。
豚は湿潤な環境を好み、残飯や人糞を良質なタンパク質に変換してくれる。そのため東南アジアでは昔から豚と稲作がセットであることが多い。中国に至っては新石器時代の遺跡から水稲のモミが大量に発見されると同時に、陶器の豚が出土している。渡来人が日本に来るにあたって豚を連れて来ても不思議ではない。
これで豚丼の材料は早くも揃った。とはいえまだ「量」が少ない。もっと米の収穫高を上げる必要がある。権力者たちはそう考えた。
権力者から見た水田
渡来人によって伝わった温帯ジャポニカと水田の技術は、陸稲には無いメリットがあった。それは連作障害が無いということである。
先に述べたように焼畑による陸稲は、1年目こそ収穫高は優れている。しかし、2年3年と続けているうちに土地から栄養素が失われ、生産性は低下していく。そうなると休耕し、土地が回復するのを待たなくてはいけない。
対して水田稲作は、この連作障害が無い。毎年同じ土地で稲作を行うことができる。これは土地を所有する権力者にとって都合が良かった。毎年耕地を100%活用できる水稲は、陸稲よりも土地に対する生産性が高いためだ。
しかも水稲の温帯ジャポニカは葉や茎が短いため。倒れにくく過繁茂になりにくい。だから肥料を増やせば収穫高は向上する。逆に熱帯ジャポニカは葉や茎が長いため、肥料を増やすと茎の倒れや過繁茂のリスクがあり、収穫高はむしろ低下することがある。
以上の理由から、権力者は水田のある風景を夢見るようになり、税も米が中心となっていく。
しかし水稲には陸稲には無いデメリットがあった。それはコストの上昇である。そのために肉食が犠牲となった。
禁忌になる肉食
古代の日本は肉食は当然の文化だった。それは天皇が現れてからも同じである。天皇に肉が献上されるどころか、天皇自ら狩りを行うこともあった。農耕民族の長は作物に害をなす獣を討ち取らねばならない。雄略天皇にいたっては、猪を射殺せない気弱な従者を切り捨てようとしたと『日本書紀』に書かれているほどである。
それなのに肉食が禁忌となるのは、人々を稲作に集中させるためであった。
水田は人の力を必要とする。苗を植える前には田に水を入れ、土をよく砕いていおく必要がある。田植えしたら毎日水を管理し、雑草を抜き、害虫の駆除しなくてはいけない。いくら連作障害が無いと言っても、肥料をまかなければ収量は低減する。水田は土地が少なくて済む代わりに人を多く必要とする農法なのだ。
そこで人々を稲作に集中させるため、肉食を制限することになった。最初は農耕期である4月から9月だけと期間を指定し、農耕用の牛馬と家畜である鶏と犬、それに猿を禁じただけだった*6。これが仏教の不殺生や神道の穢れ思想と結びつき、次第に厳しくなっていくことになる。
なお、説明のためにテンポよく書いているが、実際は長い時間をかけて変化していっている。いくら権力者が水田を望もうとも、低コストな陸稲は長く続き、現在のような水田が支配的になったのは近世以降である。
肉食も同様で、仏教が広まって即禁止というわけではない。浄土宗の法然も『一百四十五箇条問答』の中で、「魚・鳥・鹿を食べることは飲酒と同じで、本当は控えたほうがいいが、仕方のないことだ」と答えている。やはり本格的に禁止になるのは江戸時代になってからだ。
ともあれ米が増えるに連れ、肉の消費が減っていったのも事実である。豚丼はなかなか食べられない。
豚丼への道が開かれる
江戸時代になり、日本で豚丼を食べることは絶望的な状況になった。
米は十分にある。税を米で取り立てるようになってどれだけの時間が経ったのか。日本人の意識の中心には米があった。米至上主義。そう言っても過言ではない。
しかし肝心の豚肉が厳しい。肉食文化がゼロになったわけではないが、肉食はあくまでも例外の位置づけである。食べるためには何かしらの言い訳が必要だ。こっそり隠れて食べるならともかく、堂々とご飯の上に肉をドン!はさすがに無理だ。誰もがそう考えていた。
ペリー来航。
開国によってなだれ込む西洋文化。当然そこには肉食文化も含まれていた。肉食が広まると共に、畜産も行われるようになる。ペリー来航3年後の1856年には函館奉行所で豚飼育が開始された。縄文文化のイノシシ祭りが消えてから2000年以上が経った今、ついに北海道に豚が戻ってきたのだ。
しかも米至上主義によって、日本人は北海道でも稲作をしようと挑戦していた。その努力は実を結び、1920年には本道産米100万石祝賀会が開かれる。準備は完全に整った。
こうして1933年に帯広市の大衆食堂「ぱんちょう」で豚丼が考案されることになる。
終わりに
豚丼まで長い道のりであった。豚丼には米と豚肉が必要なのに、米が増えるに連れて豚肉が減っていく。宗教的にも米の価値が高まるほどに、肉の忌避感が増していく*7。
しかし肉食文化を犠牲にしてまでも稲作を優先したことで、日本人は米を神聖視するようになり、北海道でも稲作をするようになった。だから北海道の名物として豚丼が生まれた。
一見すると遠回りに見えても、それが必要なことだったと分かることがある。豚丼を食べるたび、俺はこのことを思い出す。
今週のお題「いい肉」
参考書籍
日本人の米信仰と肉食禁忌に対する意識の変化を書いた本。この記事の内容についてもっと詳しく知りたいならまずこの本を読むべき。
日本における稲の栽培がどのように変わっていったのか、遺伝子から解き明かしていく本。水田のある風景は日本の伝統というわけではない。
古今東西の人とブタの関わりについてまとめた本。
縄文人の文化・特徴はアイヌ民族に引き継がれているという本。