本しゃぶり

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ヒストリエからトルコへのアナバシス

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トロイア遺跡

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「トロイの木馬」で知られるその城塞は、今からおよそ140年前にシュリーマンの手により土の中から発掘されたのだった。この話についてはシュリーマンの自叙伝である『古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫) 』にて詳しく述べられており、私はこの本をid:kyokucho1989から譲り受け*1、この地を訪れたのだった。

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トロイ遺跡というと、有名であるけれども訪れてみたら大したことはなく、「寄るほどのモノでもなかったな」と言うのがお約束であるらしい。私はその知識があったために期待値をかなり下げて行ったのが功を奏したか、来たかいがあったと素直に思えた。トロイ遺跡は単一の城塞跡ではなく9つの層から成り立っており、さまざまな時代の城壁を混在してその姿を見せている。これら都市の時代背景は、紀元前3000年頃の初期青銅器時代から紀元前350年〜400年のローマ時代である。したがってアリストテレスがこの地を訪れた時、その最新の遺跡は彼の時代から100年も経っていないのだった。

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遺跡の入り口にはそこにあるべきものとして「木馬」が設置されていた。もちろんこの木馬は史実に基づいたものではなく観光用に作られたものであるが、私も含め皆がそこで写真を撮るほどには必要とされている。

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多くの豪傑たちが入り乱れぶつかり合ったトロイア戦争!

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10年にも及んだこの戦いをオデュッセウスは力攻めでなく

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密かに考案した巨大な「木馬」に兵を潜ませる作戦によって勝利に導く

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ダーダネルス海峡

トロイ遺跡を見学したのなら、もうアジア側に用はなかった。正確に言えば時間のほうが無かったのではあるが、とりあえず私はイスタンブールを目指してヘレスポントスもといダーダネルス海峡を渡る必要があった。私の滞在したチャナッカレは海峡付近の中心となる都市であり、この海峡の幅が最も狭くなる場所でもある。なにしろチャナッカレから対岸の街キリットバヒルまでの幅は8スタディアもなく*2、地球の大きさにしたら誤差みたいなものしかない。

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誤差みたいとは言え、この海峡を渡るのには当然ながら船が必要である。上記の最も狭い場所に橋をかけるという計画もあるようだが、私の訪れた時には工事の様子すら無く、船を用いるのがほぼ唯一の手段*3だった。

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幸いにして港が封鎖されていたなんてことはなく、私は堂々とフェリーによってアジアを発つことができたのであった。もちろんペルシア兵の追手はいない。

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吹き付ける風は強くとも、自分の脚力を一切使うこと無く船はヨーロッパへと進んでいく。このフェリーにはイスタンブール行きのバスに乗る形で乗船する。そのため港でバスに乗り込んだ1分後にはバスを降り、船の展望階に上がることになるのだった。なお、バスは複数台乗車しているため、自分の乗ったバスを忘れてしまうと上陸した後に置いて行かれることになる。上陸が近づいたら早めにバスの中に戻ったほうがいいだろう。

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私が向かうイスタンブールへの行路は前述した最短のものではなく、北西に進路を取る形であった。おそらく目的によって港を分けたほうが混みあわず便利なのだろう。そのため私は5.5kmほどの航海をすることになったのである。

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故郷カルディア

ダーダネルス海峡を渡った後のルートは以下のとおりであり、ゲリボル半島を突っ切りイスタンブールを目指して走っていく。自由市民である私は自らの脚を使う必要はなく、座席に身を委ねているだけでよかった。もし歩いて行こうと思えば陸路で300km以上であるため、歩行時間だけで60時間を超えたであろう。さすがに地球の大きさが、なんて言えるものではない。

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ゲリボル半島を進むうちに景色は見覚えのあるものとなり、そしてまもなく聖地が目の前に姿を現した。エウメネスの故郷、カルディアである。

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マケドニア軍どころか城壁も無い。いたってのどかな田園風景である。本当ならばここで降りるべきなのだろうが、涙をのんで通過するに任せる。なにしろここへ行く手段が不明であるし、仮に来れたところで帰るのも困難であることは間違いない。時間があれば訪れてみたいが、それはいつになるかはわからない次の機会に回すことにした。今はただイスタンブールを目指すだけである。

ただ通り過ぎただけとはいえ、かつてのカルディアを目にすることができてよかった。今更言うまでもないが、この旅は『ヒストリエ』の聖地巡礼である。振り返る必要も無く…… 全ての始まりはこの『ヒストリエ』であったのは間違えようもない事実だった。

出発前

ここで時間をトルコへの出発前に巻き戻す。まだ夏が始まってもいなかった当時、私は休暇にどこへ行くか迷っていた。私は年に1度は休暇に旅行をすると決めている。その際、以下の2点の条件は外せない。

  1. 海外であること
  2. 聖地巡礼となること

この条件の下、一昨年はヨルダンへ行き、去年はインドへと行ったのだった。

今年の休暇が9月と決まったので、まずは9月に行くのが向いている国を調べるところから始めた。そしていくつかのサイトで挙げられていたトルコに目がとまる。私の中でトルコというと、大砲のイメージが強い。『Age of Empires II』や『Rise of Nations』において、トルコという文明は大砲がやたらと強く、一方的に敵の建造物を破壊することができた。自分でも使っていた文明の一つであるため、かなり馴染みのある国だったのだ。なのでトルコを第一候補とすることにした。

続いてトルコには何の聖地があるのか調べ始めた。そもそもトルコにはイスタンブール以外に何があったかと、地図を見た時にまず気がついたのがカッパドキアである。奇岩群で有名なその場所は、私が一度は訪れてみたい場所であるとともに、バビロン会議においてエウメネスが太守に指名された地でもある。次に気がついたのがトロイ遺跡である。このあたりで私は思った。『ヒストリエ』の聖地はギリシアよりもトルコではないか、と。

読んでいる時には意識しなかったが、『ヒストリエ』の舞台はトルコであることが多い。カルディアもパフラゴニアもビザンティオンも全てトルコにあるのだから。今まで意識していなかった理由としては、作品内に「トルコ」という単語が出てこなかったからであろう。トルコの起源は一般的に6世紀の中央アジアにあった「突厥」に遡り、アナトリア半島にテュルク系民族がやってきたのは11世紀だった。したがって『ヒストリエ』の時代である前4世紀において「トルコ」という名前が出ることは無いのである。

ともあれトルコに『ヒストリエ』の聖地が多くあるとわかった以上、今回の行き先はトルコと決定し、聖地巡礼を目的としたプランを立てたのだった。行き先を以下に示す。

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  1. カッパドキア
  2. サフランボル
  3. チャナッカレ
  4. イスタンブール

カッパドキア

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カッパドキアへ行くためにイスタンブールで飛行機を乗り継ぎ、カイセリ空港へとまず向かう。預けた荷物が一時的に消失というトラブルはあったが、それは些細なことと言えよう。現代においてカッパドキアというとギョレメ国立公園のあるネヴシェヒル県内を指すことが多く、カイセリ県はその隣に位置する。しかしこのカイセリはかつてカッパドキア王国の首都であり、ここも由緒正しいカッパドキアである。ちなみにカイセリの名は「カエサルの街」を意味する「カエセレア」から来ている。

カイセリ空港から宿泊地であるギョレメへは送迎バスを利用した。値段は25TL(約1000円)で、タクシーに比べるとだいぶ経済的である*4。この送迎バスは宿まで送ってくれるのだが、私の泊った宿だけではなく、他の宿の客も一緒に乗せていた。トルコの道はそれほどいいものではないにも関わらず、バスはスピードを出すため振動が激しかった。私の後方に座っていた乗客が時折「Slow Down!」と叫んでいたほどである。

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カッパドキアは今のところ『ヒストリエ』の聖地ではない。だが、エウメネスとの関わりは深い場所である。前述したようにエウメネスはカッパドキアとパフラゴニアの太守となった。この時カッパドキアはマケドニアによって征服されておらず、エウメネスはペルディッカスに助けを借りた。これによってディアドコイ戦争におけるエウメネスの立ち位置が決まったのである。その後エウメネスはアンティゴノスとカッパドキアのオルキュニアで戦い、味方の裏切りによって敗れたエウメネスはノラという城塞に篭ったのだった。

したがってこのカッパドキアはエウメネスの人生において重要な地であるため、今回の聖地巡礼で訪れるべき場所なのである。ちなみにカッパドキアという名は、ペルシア語で「美しい馬の地」を意味する「Katpatuk」に由来する。エウメネスは相変わらず馬と関わりが深い。

岩窟教会

カッパドキアの奇岩群というのは、長年の火山活動によって堆積した硬い溶岩層と、その下にある柔らかい火山灰層が風化したことによって作られたものである。そしてこの柔らかい火山灰層は人の手でも掘削しやすいため、古来より住居として使われてきた。

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岩窟教会はカッパドキアに多数あり、私が訪れたのはギョレメ野外博物館とセリメ教会である。このうち野外博物館のほうは近いので徒歩で行き、セリメ教会のほうはツアーに含まれていた。「教会」と言っても純粋に教会だけというわけではなく、住居としても機能もある。これらは3世紀半ばにキリスト教徒達が弾圧から身を守るために作ったという。当初の敵はローマ帝国であり、後にはイスラム勢力やモンゴル帝国から信仰と身を守るのに使われたのだった。つまりこれらは教会であると同時に砦の役割もあったのである。

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私はこれらを見て、エウメネスが篭った「ノラの砦」がどのようなものかわかった気がした。

その砦は周囲が二スタディオンもないほど非常に小さかったが、高い岩山の頂上に面して立てられて、良く防備を施されており、一部は自然の、もう一部は人の手になる仕事のために優れて強固であった。
『歴史叢書』18巻(2)

時代は岩窟教会よりも600年ほど昔になるが、技術的にはそう難しいものではない。なにしろ天然にそびえ立つ岩山をくり抜くだけでいいのだから。エウメネスはこの砦に馬も連れ込んでいたが、岩窟教会の中にも馬を繋ぎ止めるための穴が用意されていた。ほとんど同じようなものと考えて間違いないだろう。むしろこの地において他の選択肢があるだろうか。

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上の写真は教会の内部である。ちなみに疾走している人はツアーで一緒になったスペイン人のおばさん。私は英語に全く自信がないため、ツアーの際には他のメンバーにくっついて行動することにしている。この時、私がついていくことにしたのが彼女だった。選んだ理由は目立っていたからである。この時は自由行動で、10分後にはバスに戻るようにと指示されていた。しかしこのおばさんは10分経っても戻ろうとしない。10分というのは私の勘違いかと思い、そのまま一緒に見学していた。20分経ったところで私は彼女にバスに戻る時間を尋ねた。平然と返された。「10 minutes.」 私達がバスに戻った時ガイドは言った。「Timing is important.」 この先ガイドが何度も口にする言葉である。

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地下都市

岩山が掘りやすいように地面もまた掘りやすいのがカッパドキアである。なので当然のごとく地下にも住居が作られることになった。これがカッパドキアの地下都市である。

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地下にあるため外見は岩窟教会に見劣りするが、内部のスケールはこちらに軍配が上がる。私が訪れたカイマクル地下都市は地下8階までの深さがあり、約5000人が暮らしていたという。しかも別の場所にあるデリンクユ地下都市とは全長9km以上に渡るトンネルでつながっているのだ。地下都市はこれらだけでなく少なくとも100以上あると言われ、未調査のものも多々あるのが現状である。

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素人考えだと岩山をくり抜くより地下に広大なトンネルを掘るほうがよっぽど困難に思えるが、意外にも地下都市のほうが古くからある。トルコ文化省によると、これら地下都市が最初に作られたのは紀元前7,8世紀であり、その後に迫害から逃れてきたキリスト教徒達が利用・拡張したのだという。ちなみにキリスト教以前に書かれた地下都市の記述の一つにクセノフォンの『アナバシス』がある。クセノフォンが宿営した地下都市はトルコ東部にあたるアルメニアにあるので、エウメネスは存在を知っていたとしても利用しようとは思わなかっただろう。

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地下都市はその規模と歴史から、しばしばオーパーツ扱いされる。曰く「古代の核シェルターである」と。こんなのはたわごとにすぎないが、まだ知られていない何かがあると言われても同意したくなる遺跡であった。

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サフランボル

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サフランボルのあるカラビュック県には長距離バスでアンカラを経由して辿り着く。タイトルに「アナバシス」を入れたが、純粋な意味でのアナバシスはカッパドキアまでであり、黒海へと向かうこの行程はカタバシスとなる*5。まあクセノフォンの『アナバシス』もアナバシスしていたのは7巻のうち最初の1巻だけであるからいいとしよう。

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このサフランボルもまた歴史のある地と言え、ローマの水道橋も残っている。だがサフランボルの全盛期は14世紀から17世紀のかけてで、シルクロードの通過点である商業都市であった。そしてサフランボルでは当時の住居が今もなお使われており、この町並みそのものが世界遺産に登録されている。なにせホテルの渡り廊下からして時代を感じられるものだった。

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町並みをそのまま保存しているために道は石畳が多く、スーツケースを引いて歩くには厳しいものとなっている。そしてこの古い町並みを散策していると、「集まり」に遭遇した。

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『ヒストリエ』の時代、飼いネコはエジプトと一部のギリシア都市などにいるだけで世界的に全く広まっていなかったが、現代のトルコはネコの国である。泊まったホテルでは入り口からネコが何度も入ってきたものだし、他の都市でもネコの方が犬よりも多かった。犬も見かけることはあったが、大抵は死んだように寝ていた印象がある。

目的地

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今回の旅行において、ギリシア・ローマの遺跡が豊富なエーゲ海方面へ行かず、こちらを選択したのには当然理由があった。そういう意味でこの街は、旅の出発点になったと言える。実際、会社の連中にもほとんど話した事はないのだが、この街から向かった「ある地点」こそが旅のいわゆる目的なのである。

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その目的地とは「Baskoy」という村で、サフランボルから隣りにあるカラビュックへバスで移動し、そこからは徒歩で向かうことにした。カラビュックのオトガル*6から距離にして7.4km。Googleによれば2時間弱でたどり着けるという。地球の大きさにしたら大したものではない。私は歩き始めた。

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上記5つの写真はそれぞれ以下の地点で撮影したものである。一番下の◯がスタート地点であるオトガルで、上へと向かって進んでいく。

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ほぼ常に上り坂であるし、およそ10kgの荷物を背負ってのことである。日頃から鍛えている人ならともかく、読書小僧の私*7にとって厳しい道のりであった。写真2枚目の位置で「結構登ったな」と思い、地図を見て愕然とした記憶がある。3枚目の位置を過ぎたあたりから住宅がほとんど無くなっていった。5枚目のあたりから道は舗装されておらず、周囲には森と小川、それに電線が見えるだけとなっていた。この頃になると後悔の念が漂っていたのは否定しない。そして★の地点で親切なドライバーに拾われ、Baskoyまで乗せて行ってもらったのである。

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ここでBaskoyがトルコのどの位置にあるのか説明する。この写真は北緯41° 14' 50.25" 東経32° 36' 2.628"の地点のものだ。ここは黒海沿岸にあるFilyos…… かつて「Tios」と呼ばれたその街から、直線距離で約60kmの場所にある。つまり……

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パフラゴニアにて

前々から『ヒストリエ』を読んでいて気になっていた事があった。ボアの村に元ネタはあるのか、と。エウメネスの半生が不明とされながらも、カルディアからマケドニアへ行ったとされているため、パフラゴニアでしばらく暮らしていたというのは完全な創作だろう。しかしボアの村関係の全てが創作とは考えにくい。何かしら元ネタがあってもいいはずだ。

例えば名前については元ネタがほぼ判明している(とされている)。アッタロス朝またの名をペルガモン王国である。アッタロス朝の創始者フィレタイロスの母親がボアという名前で、パフラゴニアの出身である。また、フィレタイロスの弟にエウメネス(ヒストリエ主人公とは別人)がおり、その妻の名がサテュラである。さらに言えばフィレタイロスとエウメネスの父親はアッタロスであるため、『ヒストリエ』においてエウメネスがアッタロス将軍の家に居候したのもこれが元ネタなのかもしれない*8

そんなわけでボアの村はどこにあったのかと考え、私の取った手段が上に貼った画像であった。「BASKOYの写真」を撮った場所から他の方向を見るとこんな感じだ。

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このへんで現地の人に声をかけられ、写真を撮るのをやめろと言われてしまった。少々残念ではあるが、私の目的は実際に行ってみて、どのようなところか確認するということにあったので、素直に従う。もう少し人の多いところならともかく、こんなところで揉めていいことはない。それに交渉するにも相手の英語は怪しく、私の英語は更に輪をかけて怪しい。そしてなによりも歯向かうほどの元気が私には残っていなかったのだ。

なので適当に会話しながら軽く見て回る程度にし、他にまともな写真は撮っていない。ただ、この村は山の中にあるためか、道に住宅がへばりつくような形で建っており、しかも道の両脇には樹が並んでいるため景色は良くない。もう少し高いところからでないと、先の写真と変わらないものしか撮れないだろう。

会話の中で当然どこから来たのか、と質問された。なので日本から、そして今日はカラビュックのオトガルからここまで歩いてきた、と答える。何のためと聞かれたので、『ヒストリエ』の画像を見せてマンガに出ていたからと返す。すると、こいつバカじゃないのというような反応をされた。文化が違うから仕方ない。

話しながら帰りはどうしようかと思っていたら、向こうも気になっていたようで聞いてきた。とりあえず歩いて帰ると答えたところ、ちょっとこっち来いと連れて行かれた。数分後、私はちょうどカラビュックに用事がある人の車に乗せてもらえることになっていた。もちろんお願いする。こうして無事にボアの村から生還できたのであった。丸で囲ったのがその親切な車である。

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実際に行き、ここまで書いておいて何だが、「Baskoyがボアの村である」とは宣言できない。その理由を説明するために、ここで少しボアの村の位置について考察してみたいと思う。考察の上で重要な要素は以下の3点。

  1. エウメネスの予想位置
  2. Filyosからの距離
  3. ボアの村の地形

力押しも甚だしい私の方法は「1」を最重視、すなわち「エウメネスの予想は完全に正しい」という前提のものだ。一応これはエウメネスの回想であり、後にボアの村について調べたようであるから、この位置は正確であるとこじつけることもできなくはない。これだけならばBaskoyが一番可能性が高い場所と言える。しかし残りの要素については完璧と言いがたい。

では「2」のFilyosからの距離を重要視したらどうなるか。これはエウメネスが位置を予想するのに用いたこのセリフから考えることになる。

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歩いて2日、すなわち道のりが60km程度と思われる。長くても80kmが限界ではないだろうか。そしてこのベナおばさんのセリフによってBaskoy説に矛盾が生じる。前述したように、BaskoyはFilyos(ティオス)から直線距離で約60kmに位置する。

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60kmという距離はちょうどいい距離であるが、それはまっすぐに進めた場合のことである。見ての通りBaskoyの位置はFilyosから見て山脈の向こう側であるため、そのまま進むことはできない。現代の道を使った場合、そのルートは大きく迂回する形となるため、道のりは約100kmであり、歩いて3日の距離となる。道のりで60km程度となると、FilyosとBaskoyの間の谷間にある街Hasankadiがいい線だ。ただしエウメネスの予想位置からは大きくずれる上、3つ目の要素である地形が怪しい。

ボアの村の地形とは、このように北西に山が広がり、南東に平坦な地をある程度の面積確保できるという地形である。

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ここで上記画像の方位を北が上と断定した根拠は2つ。1つ目は単純に移住するならば、南側に山がある場所よりも、北側に山がある場所を選ぶであろうということ。根拠の2つ目は影の向きである。『ヒストリエ』はあまり向きのはっきりした影は描かれないが、全く無いわけでもない。そして村の表門付近の影は描かれるたびに村の中の方へ伸びている。そして村へ戻ってくるシーンと村から出発するシーンでは角度が異なる。

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おっさんが逃げ帰ってきた時は午後であるため、影が村から見て左を向き、影の長さもそこそこある。次のエウメネスが帰還した時だが、こちらは向きが少し道方向となり、影の長さも短い。早朝の戦いが終わった後に歩いてきたのだろうから昼あたりと思われる。村から見て少し左に傾いているのは、門の向きが南東であるためだ。そして出発は朝であるため、影の向きは村から見て右向きとなり、長さも帰還時より長い。

以上のことから上で貼った村の全景の方位がわかるというわけだ。さらに言えばビザンティオンもペラも最初に全景が描かれた時は北が上だった。やはり特に理由がないのなら地図と同じ向きで描いているのではないだろうか。

この地形を重要視すると、Baskoyは山の中すぎる。実際に行った印象としてはあのような村を作れるような開き方をしていなかった。また、谷間にあるHasankadiも微妙だ。グーグルマップを見た感じだとBaskoyよりはスペースがありそうとはいえ、それでも周囲を完全に山に囲まれている。こんな所と言ったら住んでいる人に失礼だろうが、ティオスの人間が「内陸部に領土を開く」と言った場合にここを選ぶだろうか。

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そうなると地形的にふさわしい場所は、それこそ私がBaskoyへ行くために訪れたカラビュックではないかと思う。北西に山が並び、南東は大きく開けている。そしてBaskoyへ向かう道の脇には小川も流れていたので、溜池も作れなくはなさそうだった。Baskoyとの距離も近いため、エウメネスの予想からも大きくはズレないという点も見逃せない。

Filyosとは完全に山を隔ててという形になるので、「歩いて2日の距離」というのはやはり難しい。だがあの辺でもパフラゴニアの時代にFilyosとの関係はあったようだ。というのもサフランボルに滞在した時、歴代のApple製品が展示されていることで有名な『サフランボル歴史博物館』を見学したのだが、そこにあるサフランボルがパフラゴニアだった時代の説明にFilyosが登場していた。残念ながらトルコ語の説明しか無かったため、ほとんど内容は不明だったが、サフランボルとFilyosの関係があの時代からあったのなら、カラビュックも同様に関係していたと考えるのが自然だ。

というわけで今のところボアの村の位置は、Baskoyからカラビュックにかけての辺り、特に山のふもとが一番有力だと私は考えている。エウメネスの予想と地形の両方が近いということで。Filyosからの距離は…… ボアの村の人々の歩く速さと体力が優れていたとすれば問題ない。矛盾は異民族の特異性って事で片付ける。

冗談はさておき、結論は出したが根拠としてそう強いものでもないため、他の候補があるのならばぜひ教えてもらいたい。一番手っ取り早く確実なのは岩明均にインタビューすることなのだろうが……

チャナッカレ

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サフランボルからチャナッカレへはイスタンブールを経由し、バスで向かった。後半に至っては「パラバシス」と言うのがふさわしい経路である。イスタンブールは完全に乗り換えのためだけにより、観光はまた後日というわけである。サフランボル ― イスタンブール間は夜行バスであるため、残念ながらボスポラス海峡は目にしていない。

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カルディアのわきを通り過ぎ、ダーダネルス海峡に辿り着く。前述したようにここはバスごとフェリーに乗り、海峡を渡ったところがチャナッカレである。

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海峡を渡って辿り着くチャナッカレはトロイ観光の起点となる街である。そのためか、海岸にはトロイ遺跡の模型と「木馬」が置かれていた。こちらの木馬は映画『トロイ』で使われたティンバーメア似の木馬だった。

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チャナッカレはあくまでも宿のために来ただけで、目的地はトロイ遺跡。荷物を宿においたらそのまま私はトロイ行きのバスに飛び乗った。そして後は最初に書いたとおりである。

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バスはゲリボル半島を縦走しダーダネルス海峡を過ぎマルマラ海としばし別れる。
テキルダーで給油も兼ねて休憩する。

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もちろんバスは変わらずに、そのままボスポラス海峡の関門イスタンブールに向かう。

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イスタンブール

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生年月日がわかるのでこう言うことができるのだが、私がオスマントルコの都・イスタンブールを見たのは私が26の時であった。

「オスマントルコの都」と書きはしたが、知っての通りイスタンブールはローマ帝国に東ローマ帝国、そしてオスマントルコ帝国と世界に名だたる3つの帝国の首都であった場所である*9。今「イスタンブール」と言うと結構な範囲となり、南北はボスポラス海峡の端から端まで含み、東西はヨーロッパだけに留まらずアジア側も含まれる。しかしかつてビザンティオンやコンスタンティノープルと呼ばれていた場所は、ヨーロッパ側の金角湾とマルマラ海に挟まれた地域だけを指す。この地域は現在「旧市街」と呼ばれている。

歴史的な建造物は旧市街に集中しており、それにともなって観光客もここに集まる。当然私の滞在した宿もこの旧市街にあった。その位置はローマ帝国時代のコンスタンティノープル内となるが、エウメネスのいたビザンティオン時代では都市の外となる場所である。

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このイスタンブールでは宿を予約せずに行き、当日見て探すことにした。部屋に案内され、その後料金をちゃんと見て気がつく。他のトルコ都市とは明らかに違っていた。物価が高いのだ。料金の「数字」は他の都市と同じなのだが「通貨」が違う。これまで訪れた都市がトルコリラで表記されているのに対し、イスタンブールのホテルはユーロだった。2015年9月の時点では3倍以上の差がある。最初は「ぼったくり」だと普通に思ったが、どうやらこれが普通のようだ。ただ不思議なのはホテルはユーロ表記なのに対し、町中ではトルコリラが使われていることである。

博物館

イスタンブールで最初に見て回ったのは、国立考古学博物館とその周辺である。これらはそれこそビザンティオン時代ですら市街地だった位置にあり、イスタンブールの中のイスタンブールと言うべき場所にある。最初に国立考古学博物館やトプカプ宮殿など、複数の博物館にまとめて入れるミュージアムパスを買う。これは3日間もしくは5日間有効なので、イスタンブールであちこち見るならお得であるし、チケット売り場に並ぶ手間もなくなる。

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まずトプカプ宮殿とアヤソフィアを見て回る。どちらも感想としては「金がかかっているな」という俗っぽいものだった。なにしろイスタンブールはローマ・東ローマと首都として使われ、オスマントルコの侵略を受けるもそのオスマントルコがそのまま首都として使った都市である。そしてその後は外部から侵略を受けていない。つまり世界中から集めた富が略奪されること無く、ここに残り続けた*10。なので建物にしろ財宝にしろ、その豪華さは目を見張るものばかりであった。

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個人的にこの中で一番見れて良かったと思えたのが、トプカプ宮殿内にある武器庫である。そこには歴代のスルタンや親衛隊が所持していた剣や戦斧、銃に防具などが収められていた。どれもこれも柄が金で装飾され、刃には文字が彫り込んである。それらは武器と言うより、もはや「宝具」と言ったほうが適切であると思う。メフメト2世の剣は全長2mほどの代物だった。あれなら呼び出せる。あいにくと写真撮影は禁止されていたが、Flickerに少し上がっていたので貼っておく。

the Topkapı Palace Museum weapons collection

そしていよいよ国立考古学博物館へと向かう。残念なことに私の行った時は旧館・新館ともに改修中で、主要展示物の多くが非公開状態にあった。『地球の歩き方』には2015年2月まで非公開と書いてあったが、9月になっても工事はいまだ終わる気配を見せていなかった。まあ適当な工事をして、貴重な出土品が地震等で失われるよりはいいとしよう。またいつか訪れればいいだけであるし。

とはいえ工事のシートを目にした時は不安であった。彼に会えないのではないか、と。結局立ち姿を見ることはできなかったが、幸運にも顔を拝見することはできた。彼が「王子」ことアレクサンドロス3世である。

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ヘビ………… アザが無い…… どうやら展示されていたのはヘファイスティオンの方らしい*11

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改修中とはいえ、考古学博物館には他にも様々な展示物があった。例えばトロイ遺跡からの発掘されたものや、装飾されたタイルなど。中でも興味深かったのは古代東方博物館にあるものだ。トルコにとって「東方」と言うと、アルメニアがあり、そのすぐ南にはメソポタミアがある。そしてそれらの地域は紀元前15世紀、最初の鉄器文化を築いたヒッタイト帝国の勢力圏である。古代東方博物館にはこのヒッタイト文明の発掘物やバビロンの彩色レリーフなどが展示してあった。

こうやって見るとトルコという土地の歴史の長さに感心するしか無い。ヒッタイトに始まり、神話の時代であるトロイがある。そしてビザンティオンがコンスタンティノープルとなり、イスタンブールへと名前を変える。単純に歴史が長いだけでなく、世界史レベルで見ても重要な位置を占める。さすがはヨーロッパとアジアの架け橋と言うべきか。

城壁と攻略

歴史の長いイスタンブールであるが、この地は黒海からエーゲ海へと抜けるための関所であり、貿易・軍事の両方で重要な地であった。なのでどこの勢力もここは押さえておきたいし、押さえた方はガチガチに防御を固める。元より岬が海峡に突き出た形をしているため3方は海に囲まれた、守るに易く攻めるに困難といえる地勢が成り立っていた。そして唯一陸続きである西側には、強固な城壁が古来より築かれていた。イスタンブールは城壁で有名な都市でもある。

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その城壁は現代でも部分的に残っており、その強固さを実感することが出来る。そして壁に沿って歩いていると、城壁の切れ目を見つけた。その場所は崩れた部分がいい感じに階段となっており、登ることが出来た。当然登る。

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つい「ビザンティオンの強固なる壁の上!駆け巡る英雄カレスの采配!!」などと叫びたくなるが、寄せてくるのはマケドニアの針ネズミ兵ではなく自動車である。やはり遺跡を見るときは想像力が必要だ。

また、城壁に登れるだけでなく、塔の中にも入ることができた。使われていない今はゴミが捨ててあったり砂埃だらけで汚かったが、きちんと掃除すれば兵士が一時的に滞在するのには充分使えそうだった。というかある塔には入り口にシートが掛けられ、外には洗濯物が干してあった。現代でも住むことは出来るようである*12

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そしてこれだけ強固な城壁を持つ都市だからこそ、攻める方はそれなりの準備と工夫をすることになる。紀元前340年のマケドニア軍によるペリントス・ビザンティオン攻囲作戦では当時としての最先端、これまでに無いほどの様々な攻城兵器が投入されたという。

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と書きはしたものの、一連の文と写真は合っていない。観光名所として有名なので説明するまでもないと思うが、この壁はテオドシウス帝(5世紀)の城壁であるからだ。そしてこの城壁の攻略に大砲を用いたのはオスマントルコのメフメト2世。時は15世紀、いわゆる「コンスタンティノープルの陥落」というやつである。更に言っておくと、写真の大砲のデザインはメフメト2世が用いたものとは大きく異る。こんなちっぽけなものでは難攻不落のコンスタンティノープルは崩せない。メフメト2世の大砲「ウルバンの巨砲」はこのようなものだ。

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全長8m以上、直径約750mmにもなるこの大砲ならば、胸壁どころか城壁そのものを撃ちぬくことが出来る。この写真はテオドシウスの城壁近くにある「1453パノラマ博物館」で撮影したものである。この博物館はその名の通り、1453年に起こった「コンスタンティノープルの陥落」専門の博物館である。そして360度見ることが出来るパノラマがウリである。

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調べた感じだとウルバンの巨砲は確かに強力ではあるが、最も強固な内壁まで崩壊させるに至ってはいない。しかしこのパノラマでは3重の城壁は完全に破壊され、騎兵が都市内へ突撃している。おそらくこれは誇張だろう。今のトルコはこの時「攻めている側」であるため、格好良く見せたいのかもしれない。

パノラマの後にはそれのジオラマが置いてあった。中央の穴の所に人が立ち、周囲をイラストの描かれたドームで覆うという構造である。

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ボスポラス海峡

その他モスクやヴァレンス水道橋などを見て回った後、私はボスポラス海峡へと向かった。やはり最後にはここを見ておきたい。海岸に出る道は意外にも少なく、時間がかかってしまったが、なんとか日没前にはたどり着いた。

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まるで将棋のよう…… というより『シムシティ』のようである。海岸ギリギリまで建物は並び、今でも工事がどこかしらで行われていた。現代ではこのイスタンブールに遊ばせておく土地はないのである。宿代が他の3倍以上であるほどなのだから。実際に行って思ったが、対岸であるアジア側は結構離れている。少なくとも私の視力では建物ですら小粒にしか見えず、人がいるかどうかなんてさっぱりだった。ましてやどのような格好をしているかなんて分かる気がしない。ディスプレイの無い時代の人は目が抜群に良かったのだろう。

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終わり

次の日に私は飛行機で日本へと帰った。完璧とは言いがたいが、やりたかった事はおおむねできたので良しとする。発見とトラブルが混じった有意義な旅だったと言えよう。

ヒストリエについてはこのブログでも何度か取り上げている。

これらで紹介したようにヒストリエ関連の本は今までいくつか読んできたけれども、やはり実際に行くことで分かることもある。本を読んで「知識」と「疑問」が増えたら旅に出るべきなのだ。

今回の記事はあくまでも聖地巡礼ということで、出来る限り『ヒストリエ』関係に絞って書いた。他のことも書いていたらいくらなんでも長過ぎる。その書かなかった事についてだが、あとの事は…… また考えよう…… 何かだるい…… ちょっと休む……

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続き

次はアテネだ。

*1:本あげます。 - マトリョーシカ的日常

*2:もっと北まで歩いていればカリステネスの苦労も半分以下であっただろう。

*3:チャナッカレには飛行場があるので、飛行機を使うというのも無くはない。

*4:タクシーだと『地球の歩き方』によれば180〜240TLする。

*5:位置だけでなく標高で考えてもカッパドキアの方が高いため、サフランボルへは「下り」となる。

*6:バスターミナルのこと。

*7:「小僧」というには年をとりすぎているが。

*8:私が知らないだけで、実際にエウメネスがアッタロス将軍の下にいたのなら話は別だが。

*9:ラテン帝国とはなんだったのか。

*10:厳密に言えば兵士単位での略奪はされているけれども、国によって外部に持ちだされたということはない。

*11:間違えるのも仕方ない。彼はもう一人のアレクサンドロスなのだから。

*12:歴史的建造物を住居に使うとか贅沢なホームレスだ。