なぜ休みの延期はこれ程までに辛いのか。
そう打ちひしがれる俺に、脳内でダニエル・カーネマンが語りかけてくる。
「それはこのグラフで説明できる」と。
延期となった休み
10月5日に休みをとる予定だったのだが、延期となった。俺はいつ休みをとるか年度の始めに1日単位で計画するタイプなので、半年以上前から予定していたことである。一週間以上前には上司から許可をもらっていた。しかし、様々なイベントが重なった結果、この日に休むのは厳しい状況となり、とりあえず一週間延期となったのだ。
この対応について俺は納得している。業務の観点からは10月5日という日は「特別な日」となったので出勤した方がいい。対してプライベートな観点からは10月5日という日は特別ではない。旅行の予定があるとか*1、彼女の誕生日だとか*2、そういった日ではないのだ。せいぜい時間をかけて重いブログ記事を書こうと考えていた程度である*3。
なので客観的に考えれば、休みを延期することによる損失は無いと言っていい。むしろ仕事はうまく回るし、上司に対する忠誠心アピールとなるので、総合的に見て得だと言えるかもしれない。俺の理性はそう判断している。
だが感情は違う。俺はこの決定でイライラしたし、延期することにギリギリまで抵抗した。上記のことは全て理解していたにも関わらず、である。なぜ感情では延期に反発してしまうのか。これは行動経済学で説明できる。
お気持ち解析
ここ数年、行動経済学の本をいくつか読んでいるし、このブログでも何度かネタにしている。読まれたやつなら「ワニの記事」があり、最近のだと「こづかいの記事」がある。
よく考えてみると、どちらの記事も他人の振る舞いをネタにしている。たまには自分を対象にするのが公平というものではないか。
ということで今回は自分の感情を行動経済学で解き明かすことにしたわけである。
プラマイゼロとはならない
今回、俺の休みは10月全体で見ると増減していない。5日は休みでなくなったが、12日を休みにするからである。だが、感情で問題となるのは合計ではなく「減って、増えた」ことだ。これを説明するためには、人の価値関数のグラフを使うのが分かりやすい。
このグラフはお金の増減に対する心理的価値を表している。心理的価値は「幸福度」と言ってもいいだろう。プラスなら幸福で、マイナスなら不幸というわけだ。お金が増えた場合 (→) は幸福を感じ (↑) 、逆にお金が減った場合 (←) は不幸と感じる (↓) となっている。
価値関数のグラフは、2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンと、共同研究者エイモス・トベルスキーによって提唱されたプロスペクト理論に基づいて作られたものだ。これには人の認知における3つの特徴が組み込まれている。
1つ目の特徴は、評価は「中立の参照点」に基づいて行われることである。もう少し簡単に言えば、その価値が高いか低いかは何かと比較して決まるということだ。例えば今年の年俸は500万円だと言われた時、幸福度は絶対的な金額ではなく、去年の年収によって決まるだろう。もしくは同僚や友人の年俸かもしれない。何かしらの基準があり、それを下回っていたならば金額としてはプラスでも、当人の認識ではマイナスとなるのだ。グラフでは中心が中立の参照点となる。
2つ目の特徴は感応度逓減性である。これは人間の感覚と同じで、倍のお金をもらえても喜びは倍にはならないということだ。さらに3倍、4倍と増えていくと、心理的な影響はどんどん小さくなる。これはマイナスでも同じことが言える。だからグラフの傾きは中心から離れるに連れてなだらかになっていく。
3つ目の特徴は損失回避性である。利得と損失を比較した場合、その絶対値は同じでも、人は損失を強く感じるのだ。だから人は損をしないことを重要視する。このことは賭けをすることを考えれば実感できる。五分五分の賭けで、敗けたら1万円を失うとしよう。勝った時いくら貰えるならあなたは賭けに参加するだろうか。
合理的な人間ならば、もらえるのが10,001円以上で賭けるはずだ。期待値がプラスになるからである。しかし多くの人は違う。平均するとおよそ2万円もらえないと賭けに乗らない。この損失回避倍率は個人や金額によって異なるが、様々な実験の結果おおむね1.5~2.5となることが分かっている*4。ここでもう一度グラフを見てみよう。
横軸において中心からの距離が同じ時、縦軸ではマイナスの方がはるかに大きい*5。これが損失回避性を表しているわけだ。
先のグラフでは横軸をお金でとっていたが、他のことでも同様だ。ここで、俺の休みについて考えてみよう。この場合、プロスペクト理論で登場する特徴の1と3が当てはまる。中立の参照点は、10月5日に休むことだ。それが10月5日は出勤することになったのでマイナス1日となり、元々出勤予定だった10月12日に休みが追加されたのでプラス1日だ。これをグラフに当てはめる。
心理的価値としては全く釣り合いがとれていない*6。延期は等価交換ではないのだ。俺は気持ちの上では損をしている。
とはいえ休みの延期が必ずしも損を感じさせるとは限らない。例えば3月の時点で上司から「10月5日は忙しくなるだろうから一週ずらしてほしい」と言われたなら、俺は快く了承しただろう。今回はなぜ損失と認識したのか。それは既に休みを保有していたからである*7。
2週間ほど前から、俺は休日をどう過ごすか考えていた。月曜日が休みなら、ブログを書くのにこうして日曜の遅くまで頑張る必要は無い。土曜日に買い物と掃除をし、日曜日はニチアサと読書の日として、月曜日にブログを書く。人は未来に起きる良いことを想像すると、快感を司る側坐核が活性化することが分かっている。俺の脳内では休みを所有しており、楽しんですらいたのだ。
だから10月5日の休みに保有効果が生じ、俺は損失と認識したのだ。まとめると以下となる。
- 休みの予定を考えていたことで、休みを保有した認識でいた
- 10月5日に休むことが参照点となり、延期を「損失と獲得」と捉えた
- 損失回避性により、心理的価値としてはマイナスとなった
- 辛い
終わりに
行動経済学を学んだからといって人心を自由に操れたり、常に最適な行動をとれるというわけではない*8。だが今回のように、自分の感情の原因を探ることぐらいはできる。これは行動経済学を学んだ意味があったと言えるのだろうか。
俺は意味があったと考えている。人は出来事に因果関係を見出す。もし俺がプロスペクト理論を知らなければ、怒りの原因を何か別のものだと判断していたかもしれない。例えば上司の態度とか。これは問題だ。なぜなら上司からしてみれば、俺の休みの延期はプラマイゼロなので、それほど大した話ではない。なのに必要以上に恨まれるわけで、これは人間関係悪化につながるかもしれない。
だが俺が行動経済学を知っていたおかげで、この問題は回避された。職場における幸福度は、要因として人間関係が多くを占める。学んだ意味があったと断言できる。
とはいえ世の中の多くの人は、プロスペクト理論を知らないだろう。本記事を読んだ上司の皆様は、部下の休みを延期させる時は最大限配慮するべきだ。自分で思っている以上に恨まれることになるので。
参考書籍
今回は『ファスト&スロー』を参考に書いている。
言わずとしれた行動経済学の古典。まだ出版されてから10年も経っていないが。行動経済学の本で本書もしくはダニエル・カーネマンの名前が出てこないなら、それはハズレだと思っている。それくらいの存在。
本記事で紹介したプロスペクト理論は下巻に登場する。本書で最も重要なのは、タイトルとなった二つの思考システムである。直感的で速い思考である「システム1」と、遅く理性的な思考である「システム2」だ。判断はあらゆる場面で行われるので、自分の意思決定メカニズムを知っておくことは必ず役立つ。
行動経済学を活用した話の記事
*1:コロナのせいで海外に行けないし。
*2:そもそも彼女いないし。
*3:休めたらめっちゃバズる記事を書けたのだけどなー でも休めないなら無理だなー 今じゃないと意味ないから来週だと書けないなー 日本のインターネットの損失だけど仕事だから仕方ないなー
*4:The Boundaries of Loss Aversion - Nathan Novemsky, Daniel Kahneman, 2005
*5:このグラフだと2倍どころではない。おそらく製作者は金銭の損失をとても嫌がるタイプだったのだろう。
*6:このグラフでは休みを1日失うことは休みを2.5日追加することで釣り合いが取れる、すなわち損失回避倍率は2.5となるが、倍率の値そのものに意味は無い。重要なのは損失回避倍率が1を超えるということだ。
*7:カーネマンの同僚であるジャック・クネッチが行った実験で、保有効果が働くのは対象をしばらく物理的に所有していた場合に限られると分かっている。 The Endowment Effect and Evidence of Nonreversible Indifference Curves on JSTOR
*8:あのダン・アリエリーでさえも20年連れ添った相手と去年離婚したと、『「幸せ」をつかむ戦略』(Amazon)で言っていたくらいだし。