筋肉道を極める時が来た。
ダンベルを掴み、今を生きるのだ。
修行編100%なのに面白い
今期アニメは『ダンベル何キロ持てる?』が強い。
話の流れをぶった切る形で筋トレ講座を突っ込む構成にも関わらず、しっかり楽しめるエンターテイメントに仕上がっている。ただ面白いだけでなく、見ていると実際に筋トレしたくなるから偉い。「見るプロテイン」と言い放つだけのことはある。
しかし、ここまで面白くなると予想していた人はどれだけいただろうか。なにせこの作品の中核はトレーニングである。これは大きなハンデと言わざるを得ない。
マンガ編集者の鳥嶋和彦は「努力を子供は大嫌い」と述べ、「ドラゴンボールでも修行は結果で見せた」と語っている*1。また、なろう界隈でも修行パートは嫌われるという言説が、まことしやかに語られている。
それにも関わらず、全てが修行編である『ダンベル』がここまで面白いのはなぜなのか。最大の要因は、トレーニングに対するスタンスによるものだ。これは奏流院朱美のセリフで分かる。
私と一緒に筋肉道を極めましょう!!
『ダンベル』におけるトレーニングは「道」なのだ。
果てなき筋肉道
「茶道」「華道」「戦車道」というように、日本には様々な「道」がある。この「道」とは「過程」に意味を見出す精神のことだ。
「術」と違って「道」は達成する目的が無い。もう少し正確に言えば、目指す「方向」は存在するが、その「終点」には決して到達できないのだ。その道の第一人者に「あなたは完全に極め、終点に到達しましたか」と訊いてみたら、おそらく「極めるほどに理想が遠くなる」的な返答をするだろう。
かつて、目的を達成するための手段であった様々な「術」は、明治の頃に精神性を重視する「道」へと変化を遂げた。本作の提唱する筋肉道も同じである。
本作の主人公、紗倉ひびきはもともと痩せてモテるために筋トレを始めようと、その門戸を叩いた。
彼女は筋トレを痩せるための手段、すなわち「術」としてみなしていたのである。飛ばせないOP『お願いマッスル』でも連呼しているので分かりやすい。
それが朱美と出会い、トレーナーの街雄鳴造から指導をうけることによって、筋トレに対するスタンスが「術」から「道」へと変わっていく。これは1話ED後のおさらいパートを見ることで分かる。
後ろの掛け軸に「日々精進」と書いてある。精進とは仏教用語で、「仏道修行にひたすら励む積極的な姿勢」のことである。まさに道を極める人のあり方だ。
さらに精進は元々サンスクリット語の "Virya" であり、「強い男の状態」「男らしさ」の意味を持つ。「日々精進」とは筋肉道を極める場にふさわしい言葉であると言えるだろう。
このことからアニメ1話は、ひびきの行動を通して筋トレが「術」から「道」へと変化する過程を描いていると思われる。もちろん、この時点ではまだ完全に「道」となったわけではない。完全に「道」となるのは終盤だろう。だが1話というものは、時にフラクタル構造のごとく作品全体の縮小版として作られるものである。本作もこのような構造になっていてもおかしくはない。
本作では以上のように筋トレを「道」として扱う。これによって彼女たちは今を生きるようになった。「道」を歩む者は決して「終点」にたどり着かないためだ。楽しむべき時は「未来のいつか」ではなく、努力している「今この瞬間」である。
この仏教における「修証一等」にも通じる原理で行動しているからこそ、頑張る彼女たちは充実しているように見えるのだろう。
終わりに
仏教の生まれたインドでは、古来より肉体を観察する宗教が王道だった。それは、悟りを目指すための修行として観察があり、その対象として自分の肉体から始めるのが容易だったからである。
筋トレもまた、己の肉体を観察しながら動作を行う。だからこそ、結果として進む方向性が仏教と似ているのだと思われる。近年、あらゆることを筋トレで解決する風潮があるが、この宗教的展開は必然だったのだろう。
今となっては空海もダンベルカールしているようにしか見えない。
参考書籍
たまにはキリスト教以外の宗教の本も読む。
筋トレまだ続いている
俺は筋トレを去年の5月から始めてまだ続いている。
この記事で太ったと書いたが、腹はとっくに凹んだ。最近の体脂肪率は6%前後で安定している。体重計の設定にミスがあって、設定し直したら11%だった。なんか変だと思っていたんだよな。